店長力 > 2007年06月
いらっしゃいませ(^^)
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職場の人間関係
最初に述べましたが、人が育つ環境作りのためには、スタッフさんの総意と、参加意識が不可欠です。ところが、そういう話になると、必ずと言っていいほど出てくるのが、

人間関係

という言葉です。言うまでもなく、職場の悩みや退職理由で圧倒的に多いのが「人間関係の悩み」であり、職場の風紀や人員のモチベーションを上げるのも下げるのも「人間関係が第一」であり・・・もちろん、指導に限らず仕事というものは、実際にはそれこそ人間と人間の関わりそのものという面もあります。人間関係がよければ、他のことはたいていどうにかなります。

しかし、だいたいにおいて、仕事上この「人間関係」という言葉が何を指すのか、が極めてあいまいです。スタッフさん同士のたわいないグチや雑談ならともかく、店長さんとか、管理に関わる人があまり人間関係という言葉を多用すると、全部人間関係の問題になってしまうわけで、そういう方向に話が進んでゆくとたいてい結論の出ない問題になってしまいます。

あえて言えば、スタッフさんなどからすれば、お店に散在する問題や課題などというものは、すべて「人間関係の問題」と括ってしまうのが一番手っ取り早く、興味もそそり、しかも楽な方法です。ですから、特に「指導」に限った話ではないですが、私はここに「人間関係の問題」を持ち込むことは非常にまずいと考えています。それは同時に、お店での仕事の規準、目的、意味付け、といったものを曇りガラスのように覆い隠してしまうことになるからです。
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仕事において人間関係とは
たとえば、私はいつも何か話すとすれば、お店で言うところの

「人の問題」とは「役割の問題」
「指導の問題」とは「管理業務の問題」
「コミュニケーションの問題」とは「情報の扱い方の問題」

というふうに、発想や概念を切り替えるようにしています。また、スタッフさんなどに話すときにもまずそのように仕向けます。ある意味で表現のすり替えに過ぎないのですが、少しでも明確で、限定された枠組みで考えるほうが有益だと思います。とにかく、何でも人間関係という話に持っていくな、と言いたいのです。少なくとも、店長さんや上級スタッフさんが、より抽象的であいまいな議論に流されてしまっては本末転倒なのです。

そこで、この「人間関係の問題」とは、別の言い方をすればなんでしょう。と考えると、私は、仕事においては人間関係の問題とは、すなわち

「働きかけの問題」

というのが一番近いかな、と思います。

実はこれは受け売りなのですが、仕事上、発生する人間関係とは、いったい何のためにあるのか、あるべきなのか、というと結局のところそれは

自分の仕事を遂行するための、働きかけ

だということになる。遂行するだけではダメで、次には

自分がしている仕事の付加価値を高めるための、働きかけ

も必要になる。いずれにしろ、仕事に限定すれば、それが最も必要なことであって、逆に言えば、少なくとも意識の仕方としてそれ以外に人間関係などが入り込む余地ははない、と言えないでしょうか。

職務上の正式な命令にしろ、指導にしろ、または、日頃のあいさつや、たわいない世間話にしろ、それらはすべて、そのためにやっているのであって、そのためにやるつもりでやるべきだと・・・もし、それ以外の目的や意図を持って相手と接触するということは仕事本来ではない、ということになります。
他意のあるコミュニケーション
たとえば、グチや噂話といったもの、プライベートな情報も含むコミュニケーション、これらも「潤滑油」と例えられることがあるように、必要な面もあるでしょうし、それを強く必要としているようなタイプの人もいる。だから、全体として完全に排除するというのは難しいでしょう。

しかし、少なくとも指導を行う人は、自分自身はその波に飲まれず、どのようなタイプのコミュニケーションであっても、常に意図としては「働きかけ」に徹するというスタンスを守るべきで、そうでなければ、自覚しているといないとに関わらず、

仕事本来から外れる人間関係を持ち込もうとしているのではないか

と自分の意図を疑ってみることです。

指導という業務、また職権等を用いて、いわゆる「他意がある」人間関係を作ろうとしているのではないか・・・という自覚が必要です。この、「他意」という中に、セクハラ、パワハラ、その他の問題を引き起こす原因も含まれており、それは、ある意味で本人が自覚するよりも鋭く、先に相手に伝わってしまうものだから厄介なのです。

私は別に、仕事上知りえた相手と、あらゆる意味で人間関係を築くな、というつもりはないです。が、仕事としての「働きかけ」でないコミュニケーションをあえてするということは、そこに何らか別の意図や意味が発生することを望んでいるということに他ならないわけで、それを無自覚に行うのは思慮がなさ過ぎると、少なくとも感じるわけです。

ましてや、それを職権を用いて「指導などと称して」行うというのは、コミュニケーションと呼ぼうが指導と呼ぼうが、実質として

「他意」の押し付け

なのであり、これはもう、責められても仕方ないと思うわけです。
気にしすぎるのも他意になる
自分の姿を省みない、独りよがりな態度というのはもちろん避けるべきですが、かといって、

「ここで、こう言ったらセクハラになるのかな・・・」
「あんまりはっきり言うと、パワハラだと反発するかもしれないし・・・」

などと、いちいち気にして不安に思っていると、相手に余計におかしなメッセージを与えてしまうことになるでしょう。ですから、前に言ったとおり、指示命令するときも、指導をするときも、これは自分の仕事のために必要な「働きかけ」だという自覚と自信を持って相手に接することがまず有効で、一つひとつの挙動や言葉使い(一方ではそれも大切かも知れませんが)だけをいくら気にしても、そもそも「他意」が含まれていれば問題はなくならないのだと思います。

あまりに相手の反応や意向を先読みしてばかりいては、それそのものが「他意」になってしまいます。

「相手にどう見られるか」
「相手がどう反応するか」

ということに過剰に敏感になる必要はありません。むしろ、素直に自信を持って指導すれば、多少の不備や不足など問題にならなくなります。

働きかけ、というからには、リアクションではなく、常にアクションを念頭に置かなければなりません。そこから、

○ 「報告をもらう」より「報告を聞きに行く」
○ 自分から情報発信する

といった具体的な行動指針も生まれてきます。

また、口頭で直接伝えたり、コミュニケーションをとったりすることは、働きかけとして出来ることの「ごく一部」であるという認識も必要だと思います。

もちろん、適切な説明をする能力や、いわゆる対人関係能力といったものもお店で働く上で主要なスキルだと思いますが、特に管理指導に際して、多くの場合不足しているのはむしろ周辺的なツールや環境、そして何より自分自身の業務の整理のほうであり、単に

「どういう説明をするか」
「どういう接し方をするか」

という範囲でしか考えなかったとすれば、さまざまな働きかけの機会を自ら限定してしまうことにもなるでしょう。
安易なコミュニケーションの代わりに
人を使おう、相手を動かそう、と考えると、つい相手のことばかりが気になってしまいます。相手をコントロールし、心身ともに支配して忠誠心を持たせることがマネージメントだ、などと極端に考えている人も少なくありません。

しかし、そういった偏ったスタンスでは、どうしても自分の姿が見えなくなってしまいます。

相手の気持ちを考えればごく当たり前に理解できることですが、そもそも上のようなスタンスで自分に接してくるような人物に、だれが

「この人に指導してほしい」

と思うでしょうか。

パラドックスのようですが、相手のことを真剣に考えようとすればするほど、自分自身に目を向けなければならなくなります。また、自分自身が見えなくなっている人ほど、他人の言動や心理をコントロールすることばかり執着するようになるものです。

考えてみると、安易な「コミュニケーション」よりも効果が高い働きかけはいろいろあるはずです。

○ 自分自身が深く考え、その考えに従ってはっきり行動する
○ 良い、と思う行動を見たら、明確に「良い」という意思表示をする

こういったことは、口でくどくど言うよりよほど相手に伝わります。また、

○ 店舗のオペレーションを想定する規準に基いて再構成する
○ 意識が「お客様」に向かうために、逆に「それ以外の余計なことに目がいかない」ような職場の状態を作り出す
○ 先延ばしにせず、決めることをちゃんと決める

といったことも、管理者ができる働きかけに含まれるでしょう。これらは、直接的には「指導」と呼ぶものではないですが、まさに

結果的に非常に強力な指導効果がある

と言えると思います。
指導の機会はいつも転がっている
逆に言って、ごく日常的に発生するコミュニケーションの中で、有効な指導機会となる場面なのにムダに終わらせていることも多々あるのではないでしょうか。

たとえばですが、よく新人さんがすこし慣れてきた頃に

「自分は、どうして採用されたんですか」

と聞いてくることがあります。こういうときには、つい、聞こえがいいような、はっきり言うと「お世辞」「おべっか」のようなことを答えてしまいます。

もちろん、スタッフさん本人も、それほど重大な、真剣な答えを期待して聞いているのではないかもしれません。ただ、何となく自分の役割を自覚したい、というような気持ちがあるだけです。または、実際に気にしているのは、

「もう、自分は仲間として認識してもらえているんだろうか」

というような不安を解消することだけかもしれません。

ところが、急に聞かれると、答えに戸惑ってしまいます。それで、ごく当たり障りのない言葉で済まそうとしてしまいます。

「仕事できそうだったからさ」
「接客に向いていると思ったからだよ」

とか。または、

「いや、君しか応募がなかったんだよねー」
「本当は採りたくなかったんだけど・・・」

もちろん、軽いジョークのつもりでこんなことを口走ってしまうこともあります。その場で笑いあって、それでも、不完全ながらそのスタッフさんは、少し安心できるかもしれません。しかし、同時に

「結局何を期待されているのか」
「本当に、その程度の認識で採用されたのかな」

という疑問が深まり、同時にその瞬間、

「ま、いっか」

という気持ちになる。一例に過ぎませんが、ある意味これが、お店で行われている典型的なコミュニケーションの実体であるとも考えられます。

こういう場面、日常的な会話としては非常にありふれたものですが、さて、

これが、何か「働きかけ」になっているのか

と考えれば、いろいろ考えるべきことはあるはずです。日常、指導のためにもっとできることは多々あります。指導の機会もいくらでも転がっています。それをほとんど活かせないのは、相手が「心構えがなってない」「やる気がない」からではなく、自分が「働きかけ」を意識していないからではないでしょうか。
指導とは、指し、導くこと
私は常々、「人を育てる」と「人を動かす」といった問題を2つに分けて考えるようにしています。本にも書いたことですが、

「指導」と「育成」はまったく違うもの

と考えるようにしています。一般的には、両者は重複するもの、ほとんど同じような意味、と思われているように感じますが、私は、店舗管理上この2つの言葉をあえて区別することはとても有効だと考えています。

指導とは

「指して、導く」

と書きますが、「指す」といって何を指すのかといえば、それは仕事の目的・規準なり、各業務の達成基準なりです。そもそも、これなくしては指導というのはありえません。そして、これは主に誰が指し示すべきかといえば、それは「教えている側」であって、極論すれば、教えられている側が今思っていることなど関係ない、とさえ言えます。

もちろん、今度は「導く」ことが必要ですから、導くためには教えられている側の感じ方や、個性、それぞれの人がその時々にもっている思いといったものにも配慮が必要になるわけですが、それは主に「教え方」に関する問題であって、「今何を指導しようとしているか」ということには直接的には関係ありません。

指導スタイルの話を前にしましたが、たとえ「共有的」または「放任的」スタイルを選択したとしても、それはあくまで指導の手法として選択するのであって、そもそも指導する側は、その目的や、それによって達成されることになる結果を先に想定していて、そこに向かって、そこに向かわせるように導くことになります。

それが極めて限定された「作業内容」なのか、または「精神論」や「方向性」のように、ある程度、幅のあるものなのか、といった違いはありますが、とにかく「指導」と呼ぶからには必ず何らかの

ゴールが想定されている

ということです。

そして、職場において行われる指導というのは、これはもうはっきりと「作業」なのであり、お店で行う他のすべての業務から切り離して特別視するようなものではありません。
試行錯誤させないこと
と考えると、まず教える側が

「今何を教えようとしているのか」

をはっきり認識していないと管理的指導は成り立たないことになります。そんなことくらい言われなくても当たり前に分かっていると思いたいところですが、あらためてよく考えると、全体的な方針のようなものは一応頭においていたとしても、一つひとつの指導の内容をそれほど明確に認識して指導に当たっている店長さんはなかなかいません。

OJTでは、日々具体的な指導が何を目的に行われているのかを、そして、そのゴールがどこにあるのかをできる限り明確に「指し」てあげることが大切だと思います。さらに、そこに「導く」までの一連の流れを前もってイメージしている必要があります。

また、その意味でいえば、ひとつの目的を持った一つの指導は、原則として、いつか「終わり」があるはずです。指導という業務自体は連綿と続いていくとしても、一つひとつの項目について見ていけば、ある項目が終わったら、それはもう終わりなのです。

ところで、指導というのを、このように明確にあるゴールを想定した単位の集積だと考えると、一番大切なこと、いわば、「指導する意味」は結局なんでしょうか。と考えると、私は

「本人に試行錯誤させないこと」

というように表現できるのではないかと思います。特にOJTは最もそれが当てはまるように思いますが、「管理的指導」とは、つまり、本人が自分でいろいろ調べたり、考えたり、そして実際に経験して失敗してみたり・・・そういう時間と費用をある意味で「すっ飛ばして」いきなり正解に辿りつく道を教えるような行為なわけです。

指導というものをこのようにある程度ドラスティックに限定した業務と考えると、その全体像が見えやすくなります。何をすべきか、または、案外大切なことですが、むしろ「何をしなくていいのか」を考えやすくなります。

たとえば、本人に任せておくと試行錯誤が多く発生する部分ほど指導効果が高いということになります。逆に言うと

少ない試行錯誤で習得できるものは、OJTによる効果も少ない

という理屈が成り立ちます。この面から、限られた時間の中で、指導と称していったい何を伝え、何を教えたらいいのかを慎重に選択することができます。

このように指導の内容を明確化してゆくと、最終的には、トレーニーが

ゴールに至る最短距離を選ぶ

ようにコントロールすることができます。OJTは、もちろん実際に経験させるという部分を含むわけですが、それは

「とりあえずやってみて」

とか言って、通常のルーチンに放り込んで、結果を見てからいろいろ指摘する、といった方法論とは違うのです。つまり、やらせるといっても、

今それを経験させることが、最短距離であるような経験をさせる

必要があるのですね。

指導についてノウハウやテクニックを駆使するのは、別に自分の考えに心酔させるためでも、相手を感動させるためでもありません。ただ、試行錯誤を削減し、最短、最速でゴールに導くために必要なだけです。この意味に限定すれば、「指導力」とはつまり、

本人の試行錯誤を削減する力

という意味であり、そのためのスキルの集積に他ならないのです。
セレンディピティ的な成果
もちろん、相手は人間ですから、指導者側が当初想定していなかったような、想定外の成果が得られることもあり得ます。想定外というのは、想定する達成基準を大きく超えるようなすばらしい成果、という場合もありえますが、想定から逸脱した、まったく違う面でメリットなり、デメリットなりが出るという場合もあります。

主に科学の分野でセレンディピティという言葉がしばしば使われるようですが、これと同じように、指導者の想定と違う成長が見られたり、指導の過程で本人の隠れた資質に気がついたりするというのは、「偶発的な成果」という意味で、これに近いものがあるように思います。

もちろん、これはこれで、指導によって結果的にもたらされたものであり、本人にとっても、お店にとっても大きなメリットであり、非常に有意義なことに思えます。ただし、あえて意図的に行ったのでないとすれば、それは指導本来の意味からいえば「予想外の」ゴールであり、指導の目的から言えば、

「こちらが想定するゴールから外れた結果が出てきた」

という話なのであって、もし本来想定した目的をおろそかにしているとすれば、極端に言うと、

指導そのものは失敗している

とも考えられます。

OJTはもちろん、管理的指導の範疇では、指導効果とは、単に「よい結果」であるだけでなく、

「想定どおりの結果」

である必要があります。というか、私は指導者自身がそのように自覚した上で指導することが実際大切だと思うわけです。これを前提におくことで初めて、指導者がすべきこと、すべきでないことが明確になるというものです。

ですから、もし、ある程度の試行錯誤を経験させる必要があるとしても、少なくとも、本人にとって役に立つ、「意味ある試行錯誤」であると同時に、それはいわば「予定された試行錯誤」でなければならないわけです。

もちろん、セレンディピティ的な成果は、それはそれで活かせばよく、排除する必要はぜんぜんありませんが、厳しく見れば、それは指導の結果というよりも、本人がそもそも持っていた資質がそのタイミングで表面化しただけであるかもしれません。

つまり、指導する側がどう感じようと、その事柄は放っておいても早晩発揮される成果であった可能性が高いわけです。もしそうだとすると、そこに指導コストを費やした指導者側の判断が正しかったかどうかは疑問が残ることになります。少なくとも、それで

「指導がうまくいった」

などと悦に入るようなことではないわけです。
トライアルアンドエラーの有効性
しばしば、

「失敗させることも必要なことである」
「自分の頭で考えさせる」

といった話をします。もちろん、仕事をするからにはそれも非常に重要な点だと私も思っています。そのためには試行錯誤させることも必要という話もよく聞きます。ただし、これは、本人が実際に失敗をした時に、事後的に

「せっかく失敗したのだから、今後に活かしなさい」

という話とは根本的に違います。いわば積極的トライアンドエラーとでもいうべき方法論です。

と考えると、原則として積極的なトライアンドエラーが有効に機能するには、その人が、すでに初期的な指導など必要としないようなレベルでなければなりません。そうでないと、言うような効果はほとんど期待できません。

少なくとも、すでにある程度権限と責任、そして実績や経験を持っていて、しかも「とんでもない的外れな試行錯誤や失敗はありえない」と思える人でなければ、危なくて見ていられませんし、仮に失敗しても、活かされる部分は非常に限定されます。

つまり今、スタッフさんへの管理的指導という前提で考えた場合には、おそらく、実際に試行錯誤させて有効といえる場面はあまり多くありません。端的に言って

失敗しなくても習得できる事柄を、わざわざ失敗させて覚えさせる必要などない

からです。その範疇で

「おおいに失敗しなさい」
「自分で考えてやってみなさい」

などというのは安易さを感じざるを得ません。

ただし、もうひとつ考慮すべきなのは、たいていある段階で、

「自分で考えて主体的に動く」

ということ自体を指導する必要が生じるということです。そのために店長さんや、指導的立場にある上級スタッフさんは手を変え、品を変え、まさに「指導」しようとするわけです。そこで、

「失敗させることも必要なことである」

といった論を持ち出しやすいわけですが、よく考えると、主体性を持たせるという方法がそもそも

実際に試行錯誤や失敗をさせること

でいいのか、もっと他に方法はないのか、と考える余地はあります。また、この場合には先に

「自分で考えて動けるようなスタッフさんにしよう」

というゴールは決まっているわけですから、させるにしても、実はそれは、本当に本人の意思に基づいて自由に試行錯誤や失敗を許している、というわけではなく、言い方は悪いですが、

限りなく「やらせ」に近い主体性

になるはずです。つまり、それは本人にどう示そうがOJTそのものなのであり、結局のところ、その結果見えてくるゴールはあらかじめ想定されている範囲に収まらなければ認められないわけです。
主体性を求めるなら
もし、単に

「もっと自分の頭で考えて仕事しろよ」とか
「どんどん失敗しろ」

とか言って、それ以上特に指導しなくても本人が自分でそれを実現できたら、それは指導の結果と言うよりも、そのスタッフさんは単に指示に従っただけです。あえて言えば、もともと、やろうと思えばできたのに、そのように指示されていなかったから今までしていなかったわけで、むしろ管理者の不行き届き、指示命令の不徹底が問題だっただけではないでしょうか。

ただ、ふつう、はっぱをかけるだけで主体的に動けるようになるスタッフさんはいません。

というのも、多くの場合、スタッフさんが主体的に動けない(あるいは、動かない)理由は、何か別のところにあるからです。それも、メンタルケアとか、モチベーション管理とか、なんと呼ぼうと構いませんが、たいていの場合、その主たる理由はまさにあなた(店長さんや、指導している担当者)にあります。これは原因となっている本人にとっては非常に自覚しにくいことですが、ハタから見れば一目瞭然です。

とにかく多くの店長さんは、配下のスタッフさんが主体的に動こうとしないのを見て、何とかしようとして、

「もっと、ちゃんと指導しよう」

と考えると思いますが、現実にはそういう店長さんが指導に力を入れれば入れるほどスタッフさんは

主体的に動くことをやめようとしてしまいます。

つまり悪循環ということです。管理する人は、そうでなくても何かと指導方法の問題、または、指導の量の問題と考えがちですが、働く人の主体性やモチベーションといったものは、「指導」とは直接関係ない部分で決定されることのほうがむしろ多いはずです。
コーチング
最近、コーチングという一種の指導方法がしばしば取り上げられると思います。

「このようにしなさい」
「こうしたら、うまくいくんじゃない?」

というふうにアドバイスや指示、命令をするのではなく、たとえば、

「あなたは、どうしたらよいと思いますか?」
「あなたは、何が問題だと考えていますか?」

というように、適切な質問を投げかけることによって、本人に考えさせ、答えを出させるような手法のことですね。

もちろん、一般的にカウンセリングの一スタイル、またはその亜流と考えれば非常に有効な方法だと私も思います。ただ、それは原則、業務上の指導ではなく、たとえば相談を専門にしている人が用いるような場合、という意味です。

会社などで、部下に対するアプローチの有効な方法としても流行しており、コーチングに関する本もたくさん出ていますので、参考にすることは有意義だと思いますが、ただし、これを管理的指導にそのまま取り入れて、どれほど機能するか私は少し疑問です。

なぜなら、管理的指導においては、たとえ、表面的には本人の考えを引き出すように誘導するとしても、その引き出す方向はやはりあらかじめ想定されていて、たいてい、指導者側が思っているように答えないと許されない、ということになるからです。受ける側もそういうふうに先読みしてしまいやすい状況にあります。そこにコーチングという手法の難しさというか、ジレンマが存在するように思います。

もちろん、今までガミガミ言うだけだったとか、常になんでも自分のやり方を押し付けようとしていたとか、管理する側がそういう態度だったのであれば、それが多少緩和されるという意味では効果があるかもしれません。

ただ、表面上コーチングを取り入れても、相手はその手法にうまく迎合して反応するだけで、根本的には命令されているのとあまり変わらないと感じる可能性は高いと思われます。
ダブルバインド
相手を誘導したいという思いが強い指導者が、たとえば、形ばかりのコーチングを取り入れようとしても、それは考えようによっては

「自分の頭で考えろ」

というのが、そもそもウソっぽくなってしまいます。相手は矛盾を感じます。

「君はどう思う?」

と言われても、上司が期待するように答えないと否定されるのが見え見えだからです。それで、期待する通りの答えを言えば

「じゃ、自分で決めたんだから、ちゃんとやれ」

と言われます。つまり

1 自分の頭で考えろ、といいながら
2 本当に自分で考えると否定される

というように思えてしまいます。

もちろん、要領のいい部下は、そういう上司を見ても、内心鼻で笑いながらも上手く切り抜けます。また、よい学習者の態度をすでに身に付けている部下も、勝手に上手に対処してくれるでしょう。しかし、多くの部下はその状態に置かれることそのものを非常に嫌がります。

実際は相手の意向に沿って答えているにもかかわらず、自分の考えを述べたということにされてしまうのでは、考えようによっては頭ごなしに命令されるよりもっと厄介であって、それ自体大きなストレスになるからです。

複数の強制、命令があって、どっちを選んでも否定されることになる状態を二重拘束(ダブルバインド)と言うそうです。

矛盾した命令を実現することはできないので、ダブルバインドの状況下に置かれた人は、主体的に行動することはおろか、選択すらできないため身動きが取れなくなり、根深い反感を持ったり、無力感に陥ったりします。

これは、言ってみれば

「自分で考える」

という言葉の意味を、上位者と下位者が互いに履き違えているから起こるわけですが、とにかく、もし、こんな状態が起こるとすれば、管理的指導の範囲においてコーチングを導入すると逆効果になってしまう可能性も高いのではないでしょうか。
コーチングがうまくいかない理由
一見、効果があったように見えたとしても、たとえば、コーチングすると効果のある部下は、

常にコーチングしないと効果が途切れる部下

になってしまうかもしれません。いわゆるカウンセラーやコンサルタントといった職業の方から見ると、ある意味いいお客様となってしまうかもしれませんが、実際に指揮命令系統下にある部下がそんな態度だったら管理上は困ります。上司から見ると、こういう部下は

素直で従順だけど、トロくて使えない部下

に見えます。なぜそうなってしまうのかと考えると、もちろん、ひとつにはお店のスタッフさんは短期的に多くのことを習得するよう求められることが多いので、単純に

ついていけない

という場合もあると思います。自分で考えろ、と言っても、十分に知識や経験のない事柄について考えるのは、想像以上に時間がかかるものなのです。指導する側は、すでに分かっている答えを期待していますから、そういう目で見ると、

「何て判断の遅いヤツなんだろう」

と感じるでしょうが、これは、前提的な差に配慮していないからであって、必要な知識を早く詰め込みたいのなら、単純に都度指示を出して動いてもらったほうが早いわけで、指導の仕方も、主に権威的指導スタイルのほうが適しており、そもそもコーチングのような手法を駆使する必要性が薄いことになります。

もっと端的に言えば、そもそも

「自分で考えて動いてほしい」

などと考える段階ではない、ということでもあります。
わざと動かない部下
しかし、すでに業務のほとんどを理解しているにもかかわらず、いちいち指示・指導しないと動いてくれないという場合もあります。そういう部下は、

○ 事実自分で考える力がない、というのではなく、
○ 本音のところでは、上司の態度に絶望して、それ以上自分の考えを表に出すことをやめてしまっている

と言ったほうが近いでしょう。つまり、おそらく本人は、

「分かってるけど、あえてやらない」

と思っていることが多いと思います。すると、実はコーチングのような手法は、相手から見ると非常に表面的で、回りくどいやり方に見えてしまいます。下手をすると、

「何とか自分になびくように気を使っている」

などと受け取られてしまい、まったく効果がありません。

そして、こういう心理に至るまでには、たいてい、何度かダブルバインド的な場面があったことが関係しています。それによって上司の業務能力や性格、言動に根深い不信感を抱いていることが多いと思います。一言で言うと

「その上司に協力したくない理由」

があるからそうしているのです。

もちろん、本来こういった状態は避けたいところですが、いったん本人がそういう考えに固執してしまったら、それを氷解させるのは非常に困難になります。

ですから、もしすでにそうなっているところに、コーチングの真似事を取り入れたところで、有効に機能するわけがありません。こういった状態を打開するには、単に「指導の量や、やり方」を工夫しようとしても改善は難しいのです。私はむしろ、先に述べたように

指導とは、指し、導くことである

という前提に立ち返って、しっかりと指導のゴールを指し示し、そこに至る道をきちんと提供する、というような

指導者が本来やるべき事柄

をしっかり自覚できているかどうかを自問自答したほうがいいと思うわけです。
コーチングそのものを教える
もし職場内でコーチング的な指導手法を行おうとするなら、こういう意味であれば有効なものになるかもしれない、と思います。それは、コーチングという方法を通して、教えられている本人が、

1 自分で問題や課題を自己発見して
2 適切な質問や疑問の設定に置き換え
3 それに自分で答えることで考えを整理して
4 自己解決したり、
5 周囲に働きかけたりする

ということそのものを習得する、ということに主眼を置く場合です。つまり、それは

課題策定、課題解決に関するスキルを習得させるための方略

として有効な面があるわけです。この場合、指導する側は、まず実際にコーチングを行うことはもちろんですが、それと同時に、このコーチングというのはどんな方略の一環として行うのか、どんな効果を期待しているのか、ということも教えてやる必要があります。つまり、

答えを見せてからやる

というのが大きなポイントです。次には、他人からコーチングを受けなくてもコーチングされた場合のように自律的に問題解決できる、ということを発見させます。言い方を変えれば、

あなたも他人(または自分自身)に対して、コーチングという手法を使いこなせるようにする

というところまで踏み込んで伝えるのがいいわけです。これも、つまり前に言った5STEPトレーニングです。私が思うに、仕事の場合には、ここまでをセットで指導して初めてコーチングを取り入れる意味があります。

ところが、特に、上司はたとえば自分の尊厳を示そうとして、または、自分のマネージメント能力を誇示するために、

「自分はコーチングという手法を駆使できる人だと思われたい」
「しかし、部下は、私のコーチングによって、私が期待する成果を挙げればよいだけ」

などと考えていることがあります。実は、こういう、指導者側の心理的な問題が、ダブルバインドを引き起こしてしまうわけです。
体感させるOJT
実際しばしばあり得ますが、指導する側の人が、たとえば、ある作業を教えることを通して、もっと大切な、精神面のことや心構えといったものを伝えたいという意図を持っているとします。つまり、ただ言葉などで提示するのではなく、今教えている事柄を利用して体感させたいわけです。教えられている側が、作業経験を通して

まるで自己発見したかのように

ある特定の精神的態度とか、姿勢を身に付けてほしいと願うわけです。

もちろん有効な場合もあります。たとえば、教える側の意図している事柄を意味的にそのまま言葉で説明しても、基本的な考え方がある程度一致しているという前提がなければ相手は素直にそれを理解してくれないかもしれません。

お店でも、高校生のアルバイトスタッフさんに、「お金をもらって働くことの大変さ」とか「実社会のルール」みたいなものを、単に口で説明しても受け入れられにくい、というような場面はあります。 

また、一般的な職業的知識や経験がなければ、人によっては

「言葉として知っただけで、もうそれを理解した」

と思い込んでしまうような場合もありえます。

「ああ、それはもう聞いたことある」
「まあ、そうだろうね・・・分かった。はい次」

という程度の認識で、実際の行動が伴っていないということになると確かに厄介です。前に「縦の意味付け」「横の意味付け」という言い方をしましたが、そういう時、抽象的な説明はとりあえず横に置いて、今やっている作業レベルで一つひとつ体感させながら少しずつ意味や意図を関連付けてゆくことから始めるというのは有効な方法のひとつです。

ですから、初期段階でのOJTにおける原則的な流れも

習得 → 修正 → 意味付け

というのが自然ですし、最も機能的だと思うわけです。
答えを見せて何が悪い
しかし、こういう場合もありえます。

教えられている側が上級者の場合、または、すでに一般的な知識や理解力を十分に有している場合、または、理解する前提的な知識が不足していても、

「自分がやっていることの意味を、きちんと理解したい」

という欲求を強く持っている。そういう時には特に、

指導者側の意図や目的を先に開示しておく

ほうが有意義であることが多くあります。それなのに、指導する側が、

「どうせ、お前にはまだ分からん」
「お前にはまだ早い」

とか、または

「やっていれば、ふつう自然に分かることだ」

などと言って、わざと意図を隠そうとする、ということがあります。

学校で、たとえば問題集の問題を解くのに、先にすぐ答えを見てはいけない、と言うようなもので、これは、ある場合には有効ですが、逆に、

先に答えを見るのが有効な場合もありうる

わけです。たとえば、小学校の低学年の児童に、「今勉強していることの、意味や目的」など語っても得るところは少ないでしょうが、中学生以上になれば、

「どうしてこれを勉強しないといけないのか」

といった疑問が湧いてくるほうがむしろ自然ではないでしょうか。

指導側が、本人のそうした欲求に上手く答えられないと、指導者に対する不審につながり、指導そのものを忌避するようになる場合があります。

特に注意しないといけない点は、第一に、

指導する側が、「答え」と言えるようなものをあらかじめはっきり持っていない

ことがあるということです。まるでそれを隠蔽するかのように、

「自分で考えなさい」
「やっているうちに分かる」

などという態度を示していないでしょうか。そして、相手の行動や態度を見て、いい部分だけ取り上げて「指導した」と言っている。または、相手の悪いところを見つけて、指摘するだけになっている・・・ゴールが先に決まっていないと、いつもその場で対症療法的に指摘を加えるだけの繰り返しになりやすいのです。

実際にお店でOJTと称して行われる指導は、実はこういうタイプのものが多いのです。

これだと、ある範囲までは修正できるかもしれませんが、伸びがない。そして、だんだん指導を受けているほうの気分が悪くなります。
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