店長力 > 2006年08月
いらっしゃいませ(^^)
店長の仕事を考える、コンビニ店長の店舗運営マニュアルブログです。
最新記事です。 よく読まれた記事です(8月)

セブンイレブンローソンサークルKサンクスファミリーマートam/pmjobrankingFC2 Blog RankingBiz100.jp
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
完璧な接客はない
ところで、意識や姿勢が劣化する主な原因は「慣れ」である。人間は、想像以上に慣れに弱い。いくら注意してもしすぎることはない。そこで、慣れに陥らないためにコツとして自覚しておくことは

接客を業とするものにとって、最も危険なのは「完璧」という考えである

ということだ。お店で働くとき「完璧」という言葉は禁句だ、くらいに思っておいて間違いない。

考えてみると、私たちは、たった一人の、ごく身近な人間であってさえ、「気持ちを完全に読み取る」ことなどできない。接客という仕事は、ある意味で、この不可能に近い要求をどこまで満たせるか、というような仕事である。

だから、まず100%などとは考えない方がいい。そして、何も100%でなければ価値がない、というわけではない。「完璧でなければならない」と考えるのは間違いだ。

逆にすべての作業なり、業務なりに関して、

「もうこれは十分に知っている」
「こんなことは分かっている」
「もう完全にできている」

と思わないこと。つまり、今の状況が「完璧だ」と考えるのも間違っているということだ。もちろん、今の時点でできうる「最良」というのはある。しかし、今の最良は「完璧」ではない。そんなはずはない。

自分が、まだまだ(というか、理念的には永遠に)「何も知ってなどいない」という自覚を前提に物事を見ようとすることを、「無知の知」と昔の人は呼んだ。そのように、まだ知らないことがあるという前提で、常に知ろうとすることが接客に関わる者の根本的なスタンスだと私は思う。

お店で働く時、お客様に対してこの心がけを持ち続けることは非常に有効なことで、そこに接客の本質があるとさえ私は感じる。一見、直接に接客に関わらないと思われる場面でも同じことだ。すべての業務はお客様の買い物環境に直結している。

「もう分かっている」と思って、それ以上お客様の気持ちを読み取り続ける姿勢を失ってしまえば、それは、「完璧にはできないから、あきらめよう」と思った場合と同じ結果になってしまう。「完璧」というものなどひとつもないし、「完璧」でなければ価値がない、というものもない。
スポンサーサイト
変化を拒絶する心理
その事柄について特に明確な意志を持っていない場合、人間は普通、前に行ったことは前に行った通りにしようとする。これは本能のようなもので自然なことだ。むしろ、そうでなければ人間は細かいことを判断するだけで一生を終えてしまうだろう。

しかし、それは「改善を拒絶する」という副作用をもたらす。状況の変化に対して、人間は潜在的に受け入れようとしない心理を必ず持っている。

たとえば、変更すべき点が明確になり、その方法も分かっていて、明らかにそのほうが良いに決まっている、というような状況であっても、なぜか今まで通りのやり方を選んでしまう、ということが起こる。

また、変化を意識的に否定する場合も多い。典型的なのは、既得権を手放したくない、という場合だ。

お客様のためにはよいと分かっていても、それをすることで自分が不利益を被ると考えたり、または今まで何かしら自分に都合が良かった状態が崩れてしまうことになりはしないかという不安が頭をもたげたりする。

たとえば自分の作業量が多くなってしまうとか、楽ができなくなるとか、自分の能力不足が露呈してしまうとか。または、自分にとってもよいことだと思うけれど、今まで気に入っていた人間関係が変わってしまうから嫌だとか。

そういう不安があると、直接それを主張はしないまでも、ああだ、こうだと難癖を付けて変化を否定しようとする。これは無意識に行なわれる場合もあるので、注意が必要だ。こうした心理を自分が持っていることに気がつかずにいると、自分では正当な意見を言っているつもりでも、ハタから見ると見苦しい言い訳にしか見えない、ということもしばしば起こりうる。

失敗を恐れる気持ちもある。

「もし、自分が信じたような効果が現れなかったらどうしよう」
「周りの人に非難されないだろうか」

という気持ちから、今までのやり方を受け入れてしまう場合が少なくない。こうした点で、自分の本心を素直に省みる姿勢を持つことは有効なことだと思う。
※管理者の方へ
(モチベーションコントロール)

もちろん、実際には指導・育成のあり方によって本人の力をより引き出すことは可能だし、技術や知識の増加とともに、また、周囲の環境やコミュニケーションによっても意欲、姿勢は向上することもある。

ただし、危険なのは、本人がそのように「いずれ向上するもの」と理解して、現在時点での姿勢や態度といった面での不足を逃避的に正当化する可能性があることである。

また、単に作業方法を教えたり、動作的なスキルを蓄積したりする面に比べて、他人のモチベーションを維持・向上するということは、専門化でさえきわめて難しいことである。管理者は、スタンスとして「将来向上するかもしれない」というような希望的な観測のもとにスタッフを雇用したり、見込み評価したりすることは原則避けるべきであると私は思う。
ことの重大さの意味
万引きなどの軽犯罪や不正行為をする人は、それがバレて追求を受けると、

「やっと、コトの重大さに気が付きました」

などと言う。想像とは違うかもしれない。実は私が見る限り、開き直ったり暴れたりする人というのはごく少数で、ほとんどの人は本当に反省しているような顔をする。それどころか、まっ青になって震え出したり、涙を流して大声で泣いたりする。見ているこっちが気の毒になるくらいだ。

だから、ハタで見ている人は、

「だいぶ、反省しているようだな」

と感じる。でも、私の考えによれば、たいてい「コトの重大さ」と言っている本人は、実は「不正行為をすること」について重大だとは思っておらず、単に

「バレた場合の、他人の目や、自分自身のいたたまれない気持ち」

が重大だと言っているだけなのだ。つまり、その人が重大だと思っているのは主に「バレる」ことで、犯罪や不正行為を働くこと自体を反省している訳ではない。

はっきり言えば、本人は「バレた」ことを、まるで事故にでも遭ってしまったかのように、むしろ被害者的な感覚で受け止めている。本人の頭の中では、「不正をする場面」と「その不正がバレた場面」は別のところに記憶されていて、リンクされていない。

だから、いくら反省したといっても、行為自体が重大だということが分かっていないから、ほとんどの場合またやる。また同じような誘惑的な状況に出会うと同じ行動を繰り返す。いやむしろ、

「今度は、バレるかどうか分からない」
「いや、もっとバレないように工夫しよう」

という心理になり、場合によってはさらに悪質になっていく。

以上は別に科学的根拠はないが、私が今までであった「万引き常習者」や「内部不正を行う人」を見た中で感じることである。
不正行為のきっかけ
不正行為はもちろん法律上の責任を伴う。社会的信用をなくし、非難も受ける。しかし、それ以上に不正はあなた自身に重大な影響をもたらすと思う。

このことに気が付かないから、先ほど言ったように「反省するポイント」がずれてしまう人が出てくるのだと私は思う。

次の文章は、不正行為が常習化する心理過程を解説したものだ。

---



もしあなたが、不正を1回でもすると、その瞬間にはあなたはちょっとした得をします。ですがその代償としてあなたは罪悪感をもちます。

他人が知ろうが知るまいが、自分が自分の判断で悪いことをしたということがあなたを不安にするのです。このことは非常にストレスとなる場合があります。むしろこの時点で、すぐにバレたりして責任を取れる方が幸せだと言えます。でないと次の段階に自動的に進行するからです。



自分を紛らわすために、あなたは無意識に不正を正当化します。無理にでも理由を付けて「悪いことではない」と思い込もうとします。そうしないと罪悪感が消えないから自分で自分をだますのです。

理由は何であっても構わないのです。特に人が認めるような理由でなくても関係ありません。自分を欺くための言い訳に過ぎないからです。たとえば、よくある正当化のパターンをいくつか挙げると

「このくらいのことは全体に影響しない」
「結果的には同じことになるから誰にも迷惑はかからない」

「自分だけがルールを守っても仕方がない」
「これはみんながやっていることだ」

「今回の場合は例外だ」
「ルールのほうがおかしい」

「こうやっていかないと損をする」
「これは必要なことなのだ」

「私は他の部分で貢献しているからこれくらい許される」
「私は他の面でいつも不利益を被っているから相殺される」


このような気持ちになったら、あなたは、実は不安を回避しようとしているのです。そして、意識の上ではそれはかなり本当っぽく思えます。正当化とはそういうものです。

正当化する心理は、言ってみればいわゆる「免疫作用」みたいなもので、自分が悪い、という罪悪感から逃避するための人間の防御反応です。それが、一種の「アレルギー」となって、結果的に自分により大きなダメージを与えるようになるのです。
常習犯になる心理
いったん正当化に成功することで、あなたは不安やストレスから解放されるわけだ。こうなるのは、あなたが先天的に「悪人」なのではなく、自分で自分の心理を操作した結果だ。

いわば、経験によって後から身につけた一種の「スキル」なのだ。そして、あなたは知らないうちに、そのスキルをどんどん強化していく。

---



こういう心理状態を放置していると、あなたは

「ちょっと得する場面があると、よく考える前に行動して、そのたびにそれを正当化する」

というパターンを無意識に身につけていきます。いつも正当化するうちに罪悪感もあまりなくなってきます。そのプロセスがスムーズに行われるようになるからです。

罪悪感が薄れると、あなたはだんだん欲望を優先して行動するようになります。そしてもう正当化ではなくて、それは欲望を達する便利な手段になっています。あなたは「行動を改める代わりに心を変化させて」順応してしまうのです。



ここまでくると、あなたは一人前の「常習者」になっています。もう事の大小とか、周りの意見など聞き入れません。また何かのきっかけでやめようと思ったとしてもやめられなくなっています。そういう場面になると自動的にそういう行動をする人間になります。すでに一種の「病気」なのです。そして、この段階では、自分の心理をコントロールする術を失っていますから、他人から見てもおかしいと分かる言動が現れ始めます。



この段階では、もし他人に追求されたり、信用を失っても心から「悪い」とは思えなくなっています。今まで、「自分は本当は悪くない」という理由付けを繰り返し強化してきたからです。だから「懲りない常習者」になってしまうわけです。

---

当然、「1」の段階を行うとき、誰も「5」の段階に至る自分の姿を想像することはできない。だからこそ気軽にできるというものです。1本目のタバコを吸うときには、誰もまさか自分が肺がんになるとは思っていない。それと同じことだ。

不正によって得る「ちょっとした得」はそんな価値のあることだったのだろうか?

一番恐ろしいのは、周囲の目や社会的制裁ではなく、自分の「適応能力」なのだ。本人がこの点に気がついて自分を省みない限り、いくら摘発しても不正はなくならない。
対価をもらう根拠
たとえば、組織の中では、「費やした時間に対して支払う」というのがごく当たり前だという認識がある。一定の時間働けば、当然にその時間分の給料が支払われるものだと思っている人が多いのは、現実を見れば明らかだ。

もちろん、出勤時間までに職場に到着し、退勤時間になったら帰る・・・これだけでは仕事になっていない。そこまで短絡的に考えている人はいないと思う。

しかし、そうは言いながら、たとえば、毎日同じルーチン作業をこなし、何か命令されたら自分の範囲でできるだけそれをやればいい、そのくらいで、すでに対価を得る十分な根拠があると思っている人は少なくない。要するに、勤務時間、だいたいにおいて仕事に使いました、というだけで給料がもらえると思っている。いろいろ理屈をつけることはできるかと思うが、一皮向けばこれは、考え方として「時間を売っている」のとあまり変わりない。

もちろん、あなたがそれを強く主張すれば、法律上はそれが認められる可能性が高い。労働法は全般的に、被雇用者を保護するようにできているからだ。しかし、それは「法律で守られているから、そう言っても雇用者側が文句を言わない」というだけで、それがあなたの仕事の価値や評価を上げることにはならないし、また、それが今の待遇や雇用の継続を保証してくれるわけでもない。

法律や行政が被雇用者を守るのはなぜだろう。それは単純に言えば、そもそも雇われているほうが弱い立場であるという観念があるからではないか。もちろんそれはそれで、政策としては正しいかもしれない。しかしそれは、

被雇用者が弱い立場でいるべきだ

ということではない。むしろ、働く人としての実力や、また、雇用者との関係といったものを本来的で、理想的なものに導く努力は不可欠であり、それは実際の関係の中で培われていくものであって、法律や制度はそこまで保証してくれない。むしろ現実の環境の中で強い被雇用者になる道を考えたほうが自分のためでもあり、周囲のみんなのためでもあると私は思う。
契約内容を確かめよう
実は、「時間から時間までいれば、給料はもらえる(はずだ)」というような考えがそもそも誤解であることは、契約書や就業規則を見れば明らかなのだ。そこには、業務の遂行に関するさまざまな取り決めがあり、業務の内容についても規定されているはずだ。また、管理者などの指示命令に従うこと、規則を遵守すること、機密を保持すること、などが謳われているだろう。

ところが、しばしば、面接、採用時に

「やってるうちに分かるよ」
「分からないことは、その都度聞いてください」

というような話で済まされることがある。もちろん、そういういい加減な説明をする側にも責任があると言えるだろう。ただし、この責任というのは、「契約上の義務」という意味での責任ではなく、お店の管理責任とか、社会的責任といった部類のものである。

たとえば、雇用契約書面に、

「分からないことは聞いたら教えてあげます」
「何かあったら相談してくれたら善処します」
「あなたの都合を最大限に聞き入れます」

なんてことは、ふつう書いてない。つまり、契約上、働いているあなたにはもともとそんなこと保証されていない。雇用者側の準備不足や、説明不足を責めることもできるが、本来的に考えると、契約内容をきちんと把握する義務はむしろ雇われるあなたの方にあり、現場で口頭でどう説明されようと、最終的には書面で定められている実際の契約内容が優先されることになる。

また、契約内容について説明する必要はあっても、その範囲を超えて、たとえば

「どうしたら評価を上げることができるのか」
「どうしたらもっと仕事ができるようになるか」
「指導してもらいたいんだけど、どうしたらいいか」

といった前提的な質問に対して逐一解説して、納得してもらう義務もない。つまり、はっきり分かっていることは

そもそも、契約通りに業務を遂行しないといけない。

ということだけで、それ以上の権利を主張することは本来できない。

しかし、契約上どうこうという問題とは別に、現実には、あなたは雇われてからずっと、研修や指導を受けたり、不足の部分は周囲の仲間に助けられたり、疑問に思ったことは店長さんに質問したり教えてもらったりしながら、一つひとつ仕事を覚えてきただろう。

実はそれは、契約上の権利でもなんでもない。
役割のあいまいさが相互理解を阻む
そもそも、お店全体について「規準」というものがより明確でなければならないのと同じように、あなたに求められている役割と、その役割の範囲内での、あなた自身の規準が分かっていなければ、まともな仕事を提供できるわけがない。

そういった問題がクリアになっていないからこそ、何時から何時まで、制服を着てお店にいることだけが目的のようになってしまうのだ。

役割を果たしているかどうかという以前に、自分に期待されている役割をはっきり分かっていないままにしている、のが問題である。

率直に話し合ってみるのも一つの手だろうと思う。たとえば、最初の段階でそういった点について店長さんの考え方などを聞いておくなら、単に一般論として理解を共有するだけで済むだろう。

しかし、働いていながらそういう点に触れないように先送りにしていると、日々の個別の問題や、心理的な不満とかイライラとかが蓄積されてゆく。すると、それはどんどん深く、根強く、大きなものに見えてきてしまう。その後「そもそも論」を持ち出しても相互理解が難しくなる。

もちろん、雇っている側にも説明責任はある。しかし、一方では、雇われている側も、そういう問題をわざわざ持ち出すとやぶ蛇になるとか、さらには、その状況を自分に都合よく解釈しているほうが楽だからとか考えて、あえてあやふやにしているというところもあるのではないだろうか。

そして、ある特定の問題が起こったときになって、そういう話をし始める。たとえば、新しい業務を追加的に求められたときや、今以上の積極的な協力を求められたとき。しばしば、そういうときには反射的に否定的な感情が現れる。また、待遇に関しては何の説明もないのに

「もっと仕事を覚えること」
「もっと生産性を上げること」
「もっと全体を考えること」

といった要求が日々繰り返されると、非常に不当だと感じるようになる。しかし、おそらくこういうとき、たいてい、指示している方は

「それは、はじめから契約に含まれている」

ように感じているはずだ。一方で、それを聞いている方は

「まさか、自分がそれを行う義務をも負っていたとは夢にも思わない」

わけだ。それは、もともとあいまいにしていた問題が表面化しただけであり、双方に落ち度がある。
どれくらいできたか、ではない
自分に対する評価が低い、また、待遇が悪いのではないか、と感じることは誰でもしばしばある。評価が不公平だとか、適正でないという批判は、どんな組織でも絶えない。しかし、他人と比べてどうこう、という前に、存在する各人に特定の役割があり、それぞれに規準が存在する。それを前提に考えるとすれば、それを満たした業務なり役割なりを提供することで、それぞれに対価が発生することになる。

対価とは、実際のところ、

「どれくらいまで、できたから、どれくらいもらえる」

というようなものではない。たとえば、提供すべき規準の80%を満たしたので、80%の対価をもらえる、というようなものではないということである。規準というのは、そもそも100%満たさなければ成立しないものであって、その達成率を競うようなものではないからだ。

もちろん、最初はできないかもしれない。だからこそ、研修期間があり、現場でのさまざまな指導が前提的に与えられるのだ。しかし、それは仕事本来の姿ではなく、言ってみれば、ごく内部的な、そして、臨時的、例外的なものと考えるべきではないか。そして、最低限、指導が終わって、完全に自立的に、ある役割を任されるようになって初めて、あなたは、その範囲においては規準を満たせるようになったわけで、それに応じた対価を得る根拠を持ったと言うことになる。

とすると、評価がどうこう、という話をする際にも、これを踏まえて話さなければならない。たとえば、特定の作業に対する指導を受けたとき、他の仲間より少しうまくできた、とか、指導されたとおりにできるようになったとか、それは好ましいことではあるけれども、それによって対価が増えたり、特別に高い評価を与えられたりする、というようなレベルの話ではないわけだ。

試験の点数ならば、少しでも高ければ誉められる。100点満点を取ったら奇跡みたいなもので、そもそも試験というのは満点を取れないようにできているほうが普通だ。その感覚を、仕事に持ち込んではいけない。仕事は、最初に「提供する」といった規準に対して100点が前提であり、少なくともお客様は、あらかじめ想定された100点分の値段を支払うのであって、それに見合った価値が提供されなければ「異常」と感じる。仕事は「どれくらいできたか」ではないのである。
雇用者のエゴに振り回されるな
ただし、もちろん、お店で働く個人個人がどんなに理想を抱いて、そのための努力を惜しまない覚悟を持っていたとしても、雇っている側が、それに見合った高い志を持っているとは限らない。一方で、雇用者側も、雇用契約について誤解していたり、軽視していたり、自己本位に曲解していたりすることは少なくない。

私は、お店を経営・運営なさっている方が、必ずしも正しい雇用観を持っているとはぜんぜん思っていない。雇う側の問題というのもさまざまに指摘できる。

ただし、だからと言って、雇われている側が、それを一方的に非難することが正しいとも思わない。そもそも、労働観・雇用観を共有できない相手に従って雇われ続けている義務も必要性もまったくないのだから。

もし、そういった点について疑問を感じた場合には、相手の考え方を確認することは必要だし、場合によっては議論することも可能だし、その結果によっては、退職することも当然の権利だ。

私は、「多少のことは我慢して、一生けんめいに働きなさい」などというつもりはまったくないのだ。なぜなら、不本意なまま働き続けることは、不本意な運営を許し、不本意な運営をしているお店をいつまでも存続させることになるからだ。

もちろん、次の仕事先を見つけることは難しいかもしれない。また、仕事を変えたからといって、よりよい待遇や、雇用が保証されているわけでもない。

そうだとしても、厳しいようだが、お店で明らかに雇用者に非があると内心では思いながら、それでも我慢して働いているなら、それは結果的に、そういう運営を続けさせることに「加担している」とさえいえる。

私は、別に雇用者側、被雇用者側のどちらかの味方をするつもりはないのである。ただ、自分のお店のことを不満タラタラ言いながらその状況に甘んじているスタッフさんとか、一方で、「雇ってやっているのだから」というわけの分からない理由で、自分の都合やわがままを押し通そうとする管理者、経営者とかが嫌いなだけだ。

そして、その状態で長年運営されているようなお店は、一日も早く淘汰され、閉店してほしいと願っているだけである。
※管理者の方へ
(常に自分自身が問題である)

自分自身は、まさかそんなエゴを振り回すような人間ではないはずだ。いつも細心の注意を払っている、と考えているとしても、自分の姿は自分では見えないのが常である。私自身も含めて、「私こそ問題である」という自覚・姿勢が常に必要だと感じる。

ただし、自分自身が問題である、というのは、たとえば、主張すべきことをはっきり主張したがらないとか、判断を保留しがちである、といった傾向を正当化する方便にもなりやすい。


(雇用関係の対等性)

現代の労働法が被雇用者を手厚く保護する背景には、雇用者側に有利なパワーバランスがある。もちろん、被雇用者の正当な権利を侵害しないよう細心の注意を払う必要がある。

ただし、それは単にコンプライアンス上のポリシーとか、リスクヘッジのための方便であってはならない。

お客様と店舗は、自由で対等な信頼関係による取引を目指すべきだと述べた。同じように、雇用者・被雇用者もまた、指令系統上の立場の差はあっても、基本的立場としては対等でありうるし、そうあるべきだと考える。

そのような雇用のあり方を実現することは、何も単なる理想論の追求というよりも、自店の人員調達力や定着率の向上といった面にも如実に反映されるはずである。
経済活動としての仕事
最近では、雇用の現場でも目標管理や成果主義が標榜されることが珍しくない。また、それを待つまでもなく、本来的に言えば、本当は最も望ましい形は、各人が提供した価値に対して直接評価し、支払うことであるはずだ。

雇用となると、法律的にも制度的にもさまざまな制約があるため、現実にはそれを完全に求めることは簡単ではない。しかし、そもそも、一般的に経済全体を考えれば、提供された価値に対して支払うというのは、ごく当然の、前提的な考え方だ。

なぜ、各々の店舗や業者はサービスを差別化し、その優位性をアピールするのだろうか。それは、そこに含まれる価値の高さを訴えるために他ならない。私たちが消費者の立場で考えたとしても、相手が提供した価値に対して支払うというのは、ごく当たり前の考えで、

「何時間いてくれたから、いくら払う」

などとはふつう思わない。ある規準を満たした仕事を提供してくれて、初めてそれに対して納得して支払おうということになる。

裏を返せば、先に対価を得ておいて、後になって「やっぱり規準は満たせませんでした」というのは通らない。また、「いったん契約をお受けしましたが、対価が少ないと思ったので、その分手を抜きました」なんて言われたらどうする。これはきわめておかしな、一方的な理屈ではないか。

あらためて、雇用と、そしてその対価ということについて考えたとき、今言った全然筋が通らない理屈が、こと「雇用」となるとなぜか成立してしまうように感じられる。ここから脱却しない限り、どんな主張も空しいものになってしまう気がする。

私が観点として挙げたいのは、自分がお店で働いているということを

○ 単純に雇ってもらっている、と考えるか
○ 経済活動に参加している、と考えるか


ということだ。この2つのうち、自分がどちらの考えに近いかを確認してほしい。そして、自分の仕事の価値をより高めるためには、どちらを選択したらよいのかを考え直してほしいと思う。
仕事に対するスタンス
前で述べたことは、ある意味で原則論であり、理想論である。それに、私がそう思うということであって、あなたがそう考えるかどうかはあなた次第だ。

ただ、私がもし人を雇い、評価する時には、第一に、述べたようなスタンスの違いについて、その人がどういう反応をするかを必ず見るようにしている。なぜなら、それは、その人が提供する仕事の価値にきわめて重大な影響があると信じるからだ。

このことは、単にその人が雇われたとき、どの程度期待できる人材かという面で重要なだけではない。結局は、その人自身がある程度自立的に経済的な活動を、責任を持って行えるかどうかということにも影響してくると思う。つまり、管理する立場になるとか、人の上に立つとか、あるいは、将来お店を持ちたいとか、そういう場合には、非常に大きな問題になる。(私は、そういう意図がある人に対する指導が本業なので、こういう面を特に気にする)

反論もあると思うが、あえてはっきり言えば、少なくとも私としては、「仕事は、経済活動である」という事実を飲み込めない人は、自分でお店を経営するべきではないと思っている。また、雇われているとしても、ある一定以上の役割は期待できない。それに、働いている間にいつも実質的に不利益を被る立場になりやすい。はっきり言えば、弱者として振舞うことを余儀なくされてしまう。

だから、選べるとすれば、私は必ず、「原則をわきまえた人」を選ぶ。これは私が一番信頼している評価基準だ。
自己評価の難しさ
たとえば、きちんと役割を果たし、チームとして全体にも貢献する努力をしても、結局儲かるのはお店だけ、つまり、経営者とか、店長さんが儲かるだけではないか、などと考えでいないだろうか。

また、自分だけが努力していて、他の人はたいしてがんばっていないのに、結果として得られるものはあまり差がないではないか、と感じていないか。

もちろん、事実そういう「人の使い方」をしている会社やお店もないとは言えない。しかし、ここが判断の難しいところだ。いわば「雇われている」というだけで、一種の被害妄想のようにそういう考えに縛られている場合もありえる。そういう感覚に陥ると、結局、自分本位の狭い視野でしか、仕事のあり方を見られなくなる。自分の力で何ができるかを客観的に見きわめることは、本当に難しいことなのだと思う。

もし、そういった考えが頭に浮かんだら、試しに

「もし、相応の価値があると思うならば、お店で雇われるのではなく、自分で商売すればいいだろう」

と言われたら、何と答えるかを考えてみる。すると、自己評価の見積もりが間違っている人は、

「あ、それもそうですね。じゃあ、そうします」

とは絶対に言わない。なんだかんだとできない理由をつけて、今のままで、しかしより多くの対価を求めることを正当化する。たとえば

「別に自分でお店なんかやりたいと思ってないから」
「別にこの道のプロになりたいというわけじゃないから」

とか、

「資金があれば、できるんですけど」
「今は事情があってできないけど、やればできる」

とか。あえてストレートに言えば、あなたがそうやって思っている自分の事情、その事情の分が給料から差っ引かれているのだ。それで計算は合ってるわけだ。

ただ、こう言うと、身もふたもない感じがするので、通常は次のように説明する。

つまり、あなたが今、そのお店で仕事をするには、誰かが用意してくれた資源(お金とか)と、周囲の協力が不可欠で、それが提供されているからこそ仕事できている。ところが、多くの人は、そのように「与えられているもの」の価値については実際より低く見積もる。そして、そこで浮いた分を、自分の力を水増しするほうに見積もっているだけなのだと。
仕事の価値を上げるには
仕事の価値は、あなたがどれくらい役に立っているかによって決まる。そして、自分自身の価値というのは、本当ならば、規準を満たすというような初歩的なレベルを超えたところにある。

前に言ったとおり、

「チームの中にいるあなた」

という段階から、

「あなたがいるチーム」

というレベルまで、自分の存在価値を高めることが必要だし、それは決して不可能なことではない。少なくとも、そういった努力を継続的に行う意欲がなければ、

「自分の仕事が・・・」
「評価が・・・」
「待遇が・・・」

などと口にする資格はないし、言っても誰も相手にしてくれないだろう。

実力というのは、そうやって身についてゆくものだと思う。そして、このようにして得た真の実力は、今の環境、与えられている役割や権限、地位や立場、使わせてもらっている資源、そういうものをすべてとっぱらって(使うな、という意味ではない)も通用するものであるはずだ。そうして初めて、「自分の顔」で仕事し、商売、つまり経済活動をしているということにもなる。

そういうものを自分の中でどれだけ蓄積することができているか。それが、真のあなた自身の価値と言える。

そういう方向に目を向けることのほうがよほど有益なことだ。
勤務時間は誰のもの
もちろん、勤務時間というのは、拘束されて、業務を遂行しなければならない決められた時間といえる。しかし、時間で仕事をするな、とよく言われる。何時から何時までお店にいればいくら、と単純に考えるのは、自ら勤務時間を苦痛にしているようなもの。社会人でもこういう考えの人は結構多いが、これはそもそも一面的な見方だ。こんな気持ちで働いているのは辛いし、また、そのように考えなければならない理由もない。

ただ「それでもいい」とか「現実に拘束されているのだからしょうがない」とか思うのであれば、それ自体はあなた自身の生き方の問題。しかし、少なくともその道を選んだために仕事上起こるさまざまな不利益や不快は覚悟しなければならないと思う。

時間というのは、業務の進行や自分の都合と無関係に進んでいく。その意味では全員にとって公平だ。しかし、それぞれの人の時間の価値となるとそうではない。

あなたの1時間と他人の1時間は長さにおいては同じでも、その価値はまったく異なる。自分の時間を何にどう使うかは、人生の上で非常に大きな差を生む。

むしろ、勤務時間というのは、現実の生活とか、心配事から離れて仕事に集中し、多くの価値を生み出すために「あなたに与えられた時間」であるともいえる。そういう考え方もできる。そして、仕事をすることで、高い価値を生み出し、また、本人も強い達成感や満足感を得ている多くの人が実際にいる。

○拘束されている時間

とは、裏を返せば

○仕事への集中が許されている時間

なのだ。考えてみると、もし、勤務時間という観念がなかったら、あなたは「もっと有効な時間の使い方」ができるだろうか。周囲や社会のため、また、自分のためにも。そんな保証はどこにもないのではないか。

働く時間について、また、被雇用者という立場について、それをどう理解するかは、まったく本人の問題である。そして、それは仕事の成果と、自分自身の動機、満足感などに大きく影響する。後ろ向きな考え方をして、自分を損させているのは、結局いったい誰なのだろう。
評価が見合わないと思ったら
以上のような点を踏まえて、それでも、どう考えても待遇が見合わないとか、評価が著しく不当だとか思った場合には、それを率直に伝えることは悪いことではない。あなたの意見が通るかどうかは、契約事なので分からないが、話すこと自体はむしろ有意義なことだと思う。

ふつうの店長さんだったら、スタッフさんが待遇について気軽に話してくれることは、むしろよいことだと考えているに違いない。なぜなら、そういう機会は、同時に仕事のスタンスについての意見を共有するまたとない機会でもあるし、そこから派生して、さまざまな具体的な問題について議論したり、指導したりするきっかけにもなるからだ。

はっきり言うが、そういう話自体をまともに取り合ってさえくれない店長さんだったら、そこで働いていて、正当に評価してもらおうなどとは考えない方がいい。

ただし、待遇についての話題は、実際口にすればすぐに感情論になってしまいがちだ。もちろん、それではいけない。言い方が重要だ。

一つには、前に言った「よい学習者」の態度で語ることだ。この場合も、自分が正しい、正しい、と押し通すような言い方では、何の解決にもならないどころか、むしろ自分の無能さをさらすような結果になってしまう。これでは、たとえ相手が聞く耳を持っていたとしても、聞いているうちに嫌気が差してくる可能性が高い。
説明不足では話にならない
また、もう一つ私が思うのは、たとえ今の時点で割に合わないと思っても、本来、いったん契約(雇用契約)してしまったものについては、まず求められている規準を満たした仕事を一度は提供しなければならない、ということだ。つまり、すでに約束した分の債務は果たす義務がある。しかる後、

「私は、今後もこれだけの仕事が可能ですが、今度から、この仕事をするには、これだけの対価を下さい」

と手順を踏んで交渉しなければならない。筋から言えば当然そうなる。つまり、厳密に言えば、条件や待遇を変えるということは「契約をし直す」という行為なのである。ここで「契約」などという言葉を持ち出すと、

「え~、だって~」

とか言うかもしれないが、だとすれば給与が少ない云々は単なるグチ以上の何物でもない。「グチを言ってはいけない」というのは可哀想なので「契約を放棄してリターンだけを求めるのは不可能だ」と言っておくことにする。そもそも、自分の発言がその程度のものであるかも知れない、と疑ってみよう。すると、何をどう話したらいいかも自ずと考えなければならなくなる。そこには、当然

「自分の仕事の規準や、負担できる役割がどの程度のものか」
「自分の待遇を上げることが、いかにお店のためになるか」

といった点である程度はっきりした根拠が同時に示されていなければならない。そういった配慮もなく、すべてを相手に丸投げした形で、ただ単に

「時給上げてください」

では、いくらなんでも説明不足過ぎる。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。