店長力 > 2006年04月
いらっしゃいませ(^^)
店長の仕事を考える、コンビニ店長の店舗運営マニュアルブログです。
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お店のマニュアルは作業解説書ではない
一般にマニュアルと言うと、たとえばビデオとか携帯電話の「取扱説明書」のようなものがある。この場合のマニュアルというのは、まさに特定の機器について、その「使い方」を解説するものだから、

○すべての操作方法が網羅されていなければならない
○正確な手順が明確に掲載されていなければならない

という面が重要であるのに対し、

○機器を使用する意義とか、必要性とか、
○その使用について、方針を示す

などということはほとんど必要ない。

これと比べると、お店で使われるいわゆる「マニュアル」というのは、言葉は同じだが、そういったものとはそもそも一線を画する別のものであると考えるべきで、それをあいまいに混同すると有効に機能しないと思う。

たとえば、お店で「接客マニュアル」「電話応対マニュアル」といったものがあるとしても、それを使う側が前提として、その特定の業務について意義・必要性・方針といったものが理解・共有されているかと言えばはなはだ疑問だ。

仕事はすべて、その目指すものがはっきりしているからこそ、最良の方法を見つけることができる。お店で使用する「マニュアル」には、むしろ、店長さんとか、お店としての共通認識と言える「規準」や「条件」が先に明確に表現されていなければならない。

それが明示されていなければ、スタッフはごく表面的な作業レベルの意識でしか仕事できない。

そういうことは、その都度語って聞かせれば良い、と考えている店長さんもいるかも知れない。また、面と向かって口で説明しないとスタッフさんは理解してくれない、と思うかもしれない。しかし、むしろそれによってお店の管理があいまいになり、また、必要なことを行う時間が不足しているのではないか。

すべてをマニュアルに求めれば無理が生ずるが、実際「読めば分かる」ということはたくさんある。そういう部分をすべて一人ひとりに「語って聞かせる」時間は本当に必要か。むしろ、最も重要な何かを伝えるには、それ以外の部分に時間をかけていられないのではないか。

手が空いたらスタッフさんを呼びつけ、愚にもつかない経験談や持論を語って聞かせることが指導と言えるのか。それは教える側の自己満足、はっきり言えば「仕事したつもり」になっているだけではないだろうか。
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読みたいと思うマニュアルにする
だから、マニュアルを作る時には、作業手順だけではなく、むしろ

○評価の方針
○考え方、心構え
○作成者・決定者の意図、さらには
○読む人に対する精神的な訴えかけ

というものまで含めたうえで、一貫性を保った内容を提示することに力を入れる方が良い。スタッフさんは、まさにそれを確認したいのだ。

ところで、せっかくマニュアルがあっても、ほとんどのスタッフさんが自主的にそれを読もうとしない、と感じることがある。

もちろん、理由は他にもあるが、それでもなるべくなら「自然に読みたくなるような」マニュアルを作ろうという努力は可能だと思う。

確かに、マンガ雑誌のように面白おかしく作りこむ必要はないと思う。最近の人は、そういう不自然に作りこんだ物はかえって違和感を持つかもしれない。

だが、単に「これはこうしなさい」という指示だけの羅列に終始するマニュアルは、どうしても必要にならない限り誰も手に取ろうとしない。

たとえば、本を読むのが好きな人は少なくないが、辞書を精読しようとする人は稀だ。電話帳を読みふける人はもっと珍しい。

ところが、マニュアルというと、まさに全業務を辞書的に網羅したような形式のものや、さらには、味も素っ気もない電話帳的な作業手順書が出来上がってしまうことがある。

「仕事だから」それでいいんだ、と開き直っている場合ではない。

そこで、たとえば挿絵や写真を入れるのも悪いとは言わないが、それよりも大切なのはやはり「お店の方針」とか「店長さんの考え」といったものが素直に読み取れるような内容にすることだと思う。

おそらく、実はスタッフさんは案外そういった点について知りたい、と思っている。ただ、それをいちいち「お説教」によって提供されることに嫌気が差すのである。

むしろ、自分がふと問題意識を持ったとき、業務の中で疑問を感じたとき、いつでもそういった点を確認し、また自然に自己発見できるツールとしてマニュアルが手元にいつでもある、という環境が好ましいのではないかと思う。

そして、むしろ、そういったツールがあることによって、ここぞという時の「面と向かって口頭で」というのも、より効果が発揮できるというものではないだろうか。
マニュアルは権威的なものではない
人を「動かそう」とする側の人は、どうしても自分が想定した通りに相手が行動してくれることを望む。たとえば、マニュアルを作った人にとっては、もちろんそれは自信作であり、完璧に近い完成物だというような自負があり、当然にその通り動くのが最善だ、という意識がある。

だから、万が一マニュアルと、それに従うべきスタッフさんの実際の行動が食い違っていた場合には、まず

「どうしてマニュアル通りやらない」
「なぜ、こちらの想定が理解できないんだ」

という目で見てしまいがちだ。

もちろん、マニュアルと実際のスタッフさんの動作・行動は一致しているべきであり、そこに食い違いが発生するのは問題だ。しかし、もしそれが

「命令だから従うべきだ」とか、
「もう決まっているものだから守るべきだ」

という思いにすり替わってしまうと危険だ。

なぜ、マニュアルに従った動きが求められるのか。それはあくまでも

「その方法が現在最良だから」

だと私は思う。つまり、もし食い違いが発生する場合には、

「書かれていることと、あなたがやっていることと、どちらが最良か」

を論点とするべきだと思う。このことは、裏を返せば

マニュアルというものは、常に現在時点で最良の方法なり、手順なりが掲載されていなければならない

ということだ。だから、マニュアルがあるから従うべきで、一方的に実際の行動を修正するのが正しいという意識でいてはいけない。場合によってはマニュアルを更新すべきときもある。店長さんが「権威」や「職権」によって人を動かすことばかり考えていると、こういった柔軟な改善はなかなかできない。いつの間にかお客様の期待や需要とかけ離れた「目的なきルール」が横行するようになってしまう。
マニュアルは絶対的・固定的なものではない
前項とも関連するが、マニュアルは、それを作った当初は一番良い方法だったとしても、常に更新されなければならない。お客様の期待も、スタッフさんに求められるものも変化するはずだからだ。あくまで、「今」一番のものでなければだめだということになる。

その見方からすると、たとえば大きなコストや手間をかけて、「全オペレーションマニュアル」みたいなものを作るのは、かえってマニュアルの使い勝手を悪くし、更新がおろそかになりやすい。

むしろ、現場で使うためには「フットワークの軽い」マニュアルを目指すべきだと思う。

細かい話をすると、たとえばマニュアルはズドーンと分厚い1冊を作るよりも、10~20ページ程度のものを何冊も作ったほうが良い。きちんと製本された見映えの良いマニュアルも、ページを開くのが大変だったり、見たい部分を探すのに一苦労するようでは役に立たない。それよりも、持ち運びに便利で読む労力が少ないものが有利だったりする。できれば、1ページごとにいつでも取り替えのきくファイル形式のものが良い。オペレーションやルールが変更になったとき、必要な部分だけすぐに取り替えがきくからだ。

いかにマニュアルの更新をスムーズにし、それをスタッフさんにスムーズに徹底するか

という問題が大きい。実際お店では、細かいオペレーションの変更が毎日・毎週のように発生するはずだが、それがどれくらいのスピードと徹底度で各スタッフさんに伝達されているだろうか。

そのため、いつでも変更されることを前提に作られたマニュアルというのが実は「最良」なのだ。

「せっかく作ったのだから、多少おかしくなってもそのまま使おう」とか、
「やっと作ったと思ったら、すぐ変更するなんてムダだ」

と考えるのは実は誤解なのだ。

同時に、運用上注意することとして、お店でルールやマニュアルを徹底したいと思うならば、むしろ

変更の仕方をまず徹底する

のが有効な策だと私は思う。つまり、そういったものは

○常に変更されるもの、だし、
○手順を踏めば誰でも変更できる余地があるもの

なのだという意識を根付かせる。しかし、これは裏を返せば

正しい手順を踏まなければ変更できない

ということも同時に示すことになり、個人レベルでの身勝手な逸脱を許さない気風にもつながってゆくのではないかと思う。
※管理者の方へ
(お店のマニュアルには、店長さんも従う)

しばしば見られるのは、スタッフさんにはマニュアルに沿った手順や動作を求めながら、店長さん自らがまったく違うやり方をしている、という状態。これでは、マニュアルに書かれていることが事実上最良でもなんでもなく、そもそも形だけのものだということを自らアピールしているようなものである。

もし、妥当性があると信じるなら、

「店長は、他のやり方をしても良い。なぜなら・・・」

とマニュアルに特記すべきだし、明確に理由付けできない逸脱は避けるべきである。とかく店長さんは、

「自分はよりレベルの高い視点で見ているから」
「自分は権限を与えられているから」
「自分は他の業務もあるから」

といった具合に巧妙な「自己都合」を用いて、本来の業務方法や手順を変更することが許される、などと思い込んでいる場合がある。もちろん、お店に存在する誰も面と向かって「おかしい」などと指摘することはほとんどない。しかし、お店のスタッフさんがルールやマニュアルを軽視するのは、そのような管理者自身の態度を反映していることが多いのではないだろうか。
ルールは、システムを保護する
お店にしろ何にしろ、仕事には必ずある「ルール」が存在する。マニュアルというものも、働く人たちがそれに則って行動することが求められているわけだから「ルール」のひとつである。

ペナルティが付随しているかどうかは別として、ルールというものは本来、整合性のある一定の体系として成り立っていなければならない。たとえば、そもそも雇用契約があり、就業規則が定められていて、その下位に評価基準や日々の勤務に関する取り決めがある。そして、より具体的な手順や方法論を定めたマニュアルがある。

つまり、マニュアルとは、関連性なくそれぞれ独立で存在しているものではなく、お店というシステムの中で「ルールの体系に含まれているもの」でなければならない。

前に言ったように、お店というのは一種のシステムである。ルールは、もちろん、お店が全体として、ある規準を満たしたサービスなり販売取引なりを提供するための、「システムの秩序」として機能するものだ。だから、ルールそのものの否定は、システムの否定となる。

そして、どういうルールがあるべきか、また、それぞれのルールがどう適用されるべきかは、「システムの秩序」に照らして考えなければならない。もし、自分なりに考えて、

「このルールがおかしいのではないか」
「マニュアルのこの部分は、変更した方が良いのではないか」

と感じた場合は、まず、この点を考えてみる。

少なくとも、こういう場面に出会ったときは、

仕事本来の目的に立ち返ること

が必要だ。あなたに求められていることは、「ルールを守ること」自体ではない。お店にいて、お店のルールを守っていることによって、対価が発生するわけではないのだから。

決して、自分にとって不都合だからという理由で、ルールは変更すべきでない。自らの行動を振り返って、「仕事の目的に反した」ことを行っていないか、十分に考えてから言わないと、自ら首を絞めることになりかねない。
ルールは目的ではない
単にルールを守ることが目的ではなく、お店というシステムを保護し、また、その機能をより向上することこそ目的なのだから、逆に、今の時点で、

「このことは特に言われていないが、どうなんだろう?」

と思い当たることがあれば、それを放置しておいてはいけない。

気が付いたことは、相談して解決するなり、新たなルールを提案するなり、積極的な行動が望まれる。ルールがないことを理由に、仕事の目的と食い違う行動が許されると考えるのはおかしい。

私のお店のルールとして、スタッフさんに読んでもらうことになっている一文を紹介する。

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当店の方針や、ルールに反した場合、そのことを指摘されてから、あなたが他の意見を主張しても聞き入れません。言いたいことは、その行為をやる前に言ってください。

ルールや方針以前の一般常識的なことは、仕事をする以上自覚していて当たり前ですので、そんなことは聞いてませんとか、知りませんでしたとか言っても聞き入れません。そういうことは仕事に就く前に確認してください。

具体的にルールなどが決まっていない事柄について、自分の都合で判断していいんだ、ということではぜんぜんありません。当然のことはルール化していないだけです。問題は仕事の目的と方針に合っているか、反しているかということに尽きます。細かい言い訳やへりくつは聞き入れません。

この手の問題は、今から何度も指導を受けてだんだんできるようになればいいというような性質のものではありません。注意されてからはじめて知るようなことでもありません。今度から気をつけますと言っても、原則聞き入れません。今この段階でよく考えておいてください。

----------------------

実際には、いわゆる「しつけ」とか、正しい方向への誘導という観点も必要だと思う。しかし、それとは別に、このように早い段階で「ルールの意味」を伝えることも不可欠だと私は考えている。

残念だが、いわゆる「性善説」に基づいて、働く人個人の常識や良心に期待できるという幻想を抱くことは非現実的だと思う。また、仮にそもそも性善説ならばルールは当然に遵守されるだけでなく、より積極的に向上してゆくのが当たり前だということになる。お店で働いているすべての人にとって、それはごく自然に受け入れられる想定だろうか。
現状維持の心理
結果が悪く出ているのに、ルール通り、マニュアル通りやったから自分は悪くない、と正当化する姿勢は悪い。

ルールというものの位置付けや意味を理解して仕事していないと、平気でそういうことを口にするようになる。

そもそも、お客様の需要、お店を取り巻く環境はいつも変化し、また、お店は市場の中で常に競っている。「維持=衰退」と前に述べた。お店で提供する規準も変わる。

ルールとか、マニュアルとかいったものは、最初、少しずつ現状に沿った形にだんだん練られてゆき、一定の完成度まで収斂される。これは、実はそれほど難しいことではなく、いわば時間とともに、ごく自然にそうなってゆく。もちろん、それには内部にいる人の力が伴って行われる。

しかし、いったんそれが完成してしまうと、今度は、そもそも前提としていた状況なり、目的なりが変化したとしても、なかなか、それに合わせて変わるということができない。一度収斂されたシステムは、いつも

自分自身を守ろうとする

方向に力を発揮する。内部にいる人も、放っておけば「守る」方向に努力しようとする。要するに、店長さんであっても、その他のスタッフさんであっても、いったん慣れてしまったやり方を捨てるということは非常に難しいことなのだ。

だから、知らないうちにシステムは衰退する。
システムは、自らを更新できない
システムと言うのは、ひとつの状況なり、目的なりに対して最適化されると、それ自体を、自分の力で変化させることはできないという原則がある。

誰かが、今あるシステムに疑問を感じたり、特定の課題を発見したりする必要がある。改善し、向上する必要がある。ただ、それは店長さんとか、ごく一部の責任ある人がすべきことで、まさか自分自身がそのような役割を負っているとは夢にも思っていない、ということはないだろうか。

実は、その責任を負うのは、店長とか、ルールを作った人とかではなく、むしろお店に存在している全員である。しかも、実は、より自由な立場にいる人のほうが、そういう問題を発見しやすいとも考えられる。

しかし、それにはひとつ条件があって、お店なり、その組織なりに属している人が、

「システム自体を外から見る」
「システムの中にいる自分の存在を外から見る」


という視点を持っていることが必要だ。こういう人材は貴重だ。先に述べた表現をすれば、たとえば、

お店の中で、マニュアルを

「上から見る人」と「下から見る人」

がいると述べたが、現実にはマニュアルというのは、

「おかしいと思ったら、いつでも更新すべきもの」

だという意識がないと、システムは更新できない。だから、仮に中にいる人が「下から見る人」ばかりだと困るわけだ。そうすると、もし一部の人が現状を改善しようとしても、「システム自体を守ろうとする」力の大きさに阻まれて、改善が進まない。

みんながそれにすがって、助かろうとするために沈んでゆく船のようなものだ。

はっきり言えば、ルールに守られ、また、マニュアルに支配されて仕事を成立させようと思っている人、つまり、「下から見ている」人は、お店全体を向上するという責任を放棄しながら、自分は被害者のように感じている。

自らシステムに埋没していながら、誰かが自分をすくい上げてくれるのをじっと待っている。それは、求められている仕事のごく一部分しか見えていない。

本当にお店に必要な人は誰なのか。お店の役に立っている人は誰か。そして、では自分はどうするべきか。何をするべきか。そういう目で自分の職場を一度見直して欲しいと思う。
※管理者の方へ
アルバイトなどのスタッフさんを管理するために、マニュアルの必要性を理解させ、徹底しようとするのは当然のことではあるが、一方で、よく

「本社から与えられたマニュアルがうまく機能しない。それに、私自身、そのマニュアルはあまり良い出来だとは思えない。だから役に立たない」

というような悩みをよく聞く。

しかし、これは心理的にはマニュアルを下から仰ぎ見ているアルバイトスタッフと同じような言い分である。与えられたものだから、現場ではどうしようもない、とあきらめるのは簡単で便利な言い訳に過ぎない。管理者本人がそういった問題を感じながら、他のスタッフさんには徹底を促すというのはまったく整合性がない。

そのような場合、まず、納得がいかない部分をはっきりさせ、本社など作成側に確認する必要がある。ただし、それも先に述べたとおり言い方に気を付ける必要がある。ただ、現場で困っているから、何とかしてくれ、というような言い方では、おそらく前向きな方向に進まない。問題点を具体的に特定し、明確な根拠とともに解決策を提示する必要がある。

同時に、与えられたマニュアルがあるからと言って、不足点があるのにそのまま現場に落とし込んでいるのは問題である。それはマニュアルの不備ではなく、むしろ管理の粗雑さと言える。

もちろん本社の意向、目的などをよく確かめて行う必要はあるが、チェーン店などの統一的なマニュアルはそもそも大まかな部分しか盛り込みにくいのであり、現場でさらに詳細、具体的な点の取り決めをすることは、元のマニュアルの趣旨に抵触しない限り悪いことではなく、そもそも必要なことである。
マニュアル作成から学ぶ
それでは、この章で述べてきたことを踏まえて、では

「あなたが、マニュアルを作ってみてください」

私は、実際時々スタッフさんに特定の作業のマニュアルを作るよう指示することがある。もちろん、入ったばかりの新人さんではないが、そこそこ仕事も覚えて、慣れてきたくらいのスタッフさんに言ってみる。すると、やはりできる人とできない人がいる。それどころか

「え~!私がですか~?できるわけないじゃないですか~」

と、完全に放棄するスタッフさんもいる。実はこれは珍しいことではない。

確かに、ここまで読んできて、

「まあ、一応なるほど、そうだなあ」

と、何となく思ってくれたらそれはそれで嬉しいが、では

「あなた自身がマニュアルを作ってみろ」

と言われると、素直に飲み込めずに文句を言いたくなる人は少なくないだろうと思う。

「なんで俺が作らなきゃいけないんだ」
「どうせ作っても、上司が認めない」
「もう自分のお店にはマニュアルがあるから、作る必要はない」

しかし、それはどういう心理から出た言葉だろうか。「上から見る」とはどういうことだったろう。

なぜ、ここでマニュアルやルールについて語ってきたのか。多くの人が、未だに

「そういうものは、どこかで作られて、上から降ってくるものだ」

という感覚から抜け切れずにいると思う。これは一般のスタッフさんはもちろん、店長さんにも言えることだ。

繰り返し言うが、ルールやマニュアルが「上から降ってくるものだ」という感覚を断ち切らなければならない。誰かが提供してくれたもの、という感覚があればこそ、不満や評論の対象となる。

そもそも定型化・標準化されていない業務を、自分で設定し、規準を立て、工夫を凝らし、マニュアルとして形にする。実はこの作業は、それ自体それほど簡単なものではない。そして、仮にあなたがそのように苦労して作ったマニュアルを周囲の人に見てもらったとする。やはり、それを見て不満や評論の対象とする人は少なからずいる、と想像できるだろう。そして、これが何を意味するかは容易に理解できるだろう。

あなたは、すでに「良い学習者」のスタンスを身に付けているだろうか。だとすれば、全く同じ理由で

ルールやマニュアルといったものも、そもそも「恩恵」である

ということも容易に理解できるのではないだろうか。現にルールやマニュアルというものは、システムを機能させると同時に、システムの内部にいる人を保護する役割も少なからずある。私たちはみんな、ある意味でシステムに守られている。それは、事実上どうやって担保されているかというと、「ルール」によってである。

つまり、今まで述べてきたようなことをはっきり実感するには、自分でマニュアルを作ってみるという行為が一番有効だと私は思うのだ。
自分でマニュアルを作る効果
たとえば、自分がすでにやっている作業について、自分の理解によってマニュアルを一度作成してみる。仮に、すでにその作業について誰かが作ったマニュアルがすでに存在していても構わない。むしろ自分で作ったものと比べてみる。できれば、もっと良いものを作ってみようというつもりで臨む。

私は、それを使うためというよりも、マニュアル作成そのものを指導の一環としてスタッフさんにやってもらうことがある。実際にマニュアルを自分で作ってみると、今まで思いもしなかったさまざまな「気付き」が得られるからだ。ごく初歩的な点でも、

(1)ルールやマニュアルを作っている側の立場や、その心理がつかめる
(2)書かれている内容の意図や真意といったものを意識するようになる
(3)ごく自然に「良い学習者」の視点が身に付く
(4)既存のマニュアルを、有効に使おうという気持ちになる

このように、作ったものの結果的な完成度はともかく、作成すること自体に多くのメリットがある。愚にも付かない文句を言うことの不毛さにも気が付く。

そして、実際に作ったものを自分で眺めてみる。

「これは使い物にならない」

と思っても構わない。それは、自分が今している仕事をより高い角度から検証する材料として非常に有効なものなのだから。また、もしかすると、

「おお、これは立派なものができた」

と思うかもしれない。そうしたら、そのときは、それを周囲の仲間や、できれば店長さんにも見てもらうと良い。そして重要なのは、それが認められるかどうか、褒められるかどうか、ということに一喜一憂することではない。そんなことよりも、

他人が作ったマニュアルを与えられたとき、人はどう反応するか

という点に意識を集中してみることである。ある人は、

「これはおかしい」
「ここがダメ」

と評論に終始するかもしれない。しかし、これは一番ありうる反応であって、別に落胆する必要はない。または、ある人は、誉めてくれはするが、それに従おうとする気配は無いかもしれない。または、

「いちいちそんなもの作ってるなんて、ヒマなんだね」

などと嗜めるようなことを言うかもしれない。こういう人は、業務を定型化することの意味を分かっていないか、自分の利得だけを考えて仕事しているために、そういうものを他人に見せるのは損で、自分だけの秘密にしておくのが当然だと考えている人。つまり、あなたの行動の意味が理解できない。

たとえば、このように観察してみると、

「では、より良いマニュアルを作るにはどうしたら良いか」
「お店というシステムをより円滑に機能させるには何をすべきか」

という視点を持てるようになると思う。

そして、ある人は、

「うん、これはとても参考になる。自分の仕事にも活かせる点が多くあると思うから、しばらく貸してくれないか」

などと頼むかもしれない。もし、そういう人がいたら、彼は「良い学習者」とは何かと言うことを教えてくれる人、お店というチームにとって最も貴重な人である可能性が高い。
店舗作業の定型化・標準化
ある作業を定型化、つまり一定の形にまとめるためにまず必要なことを挙げると、

(1)その作業について、現時点で最良のやり方をすでに知っていること
(2)その作業の範囲内で起こりうる例外事例を、いくつかにパターン化すること
(3)その作業の意味・目的、全体の中での位置付けを明確に理解していること
(4)その作業の中で、想定されるミスのパターンを推測できること

といった具合になると思う。言い方を変えると、このようなポイントを押さえて初めて、業務が一定のスタイルに仕上がっているということになる。

その上で、これを標準化、つまり誰でも同じようにできるようにするには

これらを、まだ知らない他者にうまく説明できること

も必要になる。マニュアルといった場合、基本的に「文章か表・図・絵」といった方法によってそれらを表現するわけだから、どのような順番で、どのような表現で伝えるのかというのは大きなポイントであると思う。それはそれで多少なりとも知識や技術が必要かもしれない。

マニュアルのつくり方・使い方―業務の改善と遂行能力アップのための作成と活用のノウハウ

わかりやすいマニュアルを作る 文章・用字用語ハンドブック

たとえば、いくら「正しい」事柄を伝えているつもりでも、相手がそれをきちんと読んで理解してくれようという気持ちにならなかったら、そのマニュアルは結果的に「何も伝えない」マニュアルになってしまう。

ところで、こう言うと、時々、口頭ではとても上手に説明できるのに、それをそのままマニュアル化しようとすると急に難しく考えてしまう人もいる。しかし、ごく結論的に言うと、要するにマニュアルというのは、

「言葉や身振り手振り」で説明することの一部を、「文字や図表」で代用しているもの

に過ぎない。だから、簡単に言うと、口で説明するのと同じようにマニュアルを作るのが一番分かりやすいのであり、変にかしこまって作り込もうとするから余計ややこしくなるのだと思う。

そして、ここで同時に気が付くべきことだが、

マニュアルというものは、単にそれがそのままあるだけでは有効に機能しない

という点にも思い至るはずである。つまり、マニュアルというのはそもそも道具であり、それを用いるには作り手と受け手双方の意欲や、努力や、コミュニケーションといった働きを伴わなければ結局活かされることはない、という大前提をあらためて自覚することになる。たとえば、

「ここを読んだら、そのタイミングでこういう指導を入れなければならない」
「マニュアルを使いながら、こういうコミュニケートをしなければならない」
「この部分だけは口頭で強調しておく必要がある」

とかいうものがセットになって存在する必要がある、ということであり、

全く追加の説明も指導も不要になるようなものを作ろうとするから役に立たなくなる

実は、マニュアルを与えても有効に活かされないと嘆くのは、逆に

マニュアルが単独で万能でなければならない

というような思い込みの反動なのではないだろうか。
自分専用のサービスマニュアル
ところで、一般に、「あの人は仕事ができる」という人は、自分の中で、自分だけが常に用いるマニュアルを持っている状態にある。それは、必ずしも形式の整った書面として表されているわけではないが、いわば、頭の中でいつも自分専用のサービスマニュアルを築き上げている。

だから、たとえば今日初めて起こった事柄も、ただ単にひとつの経験として何となく記憶しておくのではなく、それは、頭の中のマニュアルの、どの部分に、どの程度の重要性を与えられて記録される、といった具合に、全体との整合性を持って配置される。

頭の中で、あらゆる仕事上の方法論や、事例や、ポイント、注意点が整理されて収納されている。イメージとしては、仮に、それを全部紙に書き出せば、それはそのままその人が行なっている全業務のマニュアルとして、そのまま使える、といった感じになっている。

そういう人にとって、前に述べた

「あなたが、マニュアルを作ってみてください」

という要求は、別にたいした要求ではない。というより、それはすでにある程度出来上がっているものをアウトプットするだけの単純作業に近い。

一般に接客マニュアルとか、サービスに関するマニュアルは役に立たない、または、そういったサービスはマニュアルによって提供することはできない、といった論があるが、その意味を履き違えてはいけない。

それは、誰でもそれさえあれば通用する、というような固定的で、汎用的なマニュアルとして標準化するのが難しい、という意味であって、接客・接遇・サービスというようなものは定型化、体系化が不可能な掴みどころのないものだという意味では全然ない。

むしろプロのサービスパーソンは、有形、無形を問わず自分のマニュアルと言えるような、ある整理された体系をきちんと持っていて、さらに、いつもそれを更新し続けることで自分のサービスレベルを維持しているはずだ。

一方、マニュアル作り、などというと一大事業のように重く捉え、いったい何から手をつけてよいやら皆目見当もつかない、とすれば、それは、第一にマニュアルの作り方がどうこう、の前に、その人が自分の仕事についてあまり理解も思考もしていないことを表している。

その意味でも、一度範囲を限定してもいいから、自分で自分の仕事をマニュアル化してみるというのは、有意義だと思う。だからこれは、店長さんだからとか、今お店の中での立場がどうとかいう問題ではなく、自分の成長のために、むしろ早い段階で取り組んでほしいと思うのだ。
成果主義の問題点
「仕事は、結果が求められる」とか、
「仕事は成果がすべてだ」

という言い方をよくする。一般に結果主義とか、成果主義と言う。しかし、これは本来の意味で言えば、

結果が伴わないのに評価されるということは、期待できない

という意味であると思う。つまり、もう少し率直に言うならば、仕事においては

「がんばった、とか、努力した、というのは言い訳にはならない」

という意味であり、たまたま何かがあって、達成できなかった(から、自分のせいではない)というような愚にも付かない言い訳をするな、というような戒めの言葉と解釈するべきだろうと思う。これは、自分が提供する仕事について何らかの規準を設定している限り、言ってみればごく当たり前のこととも言える。

しかし、よく陥りがちなのは、たとえば

「結果的に良ければ、途中はどうでもいい」
「目的さえ達成すれば、どんな手段を使ってもいい」

というような意味だと曲解することだ。現にそう感じている人がけっこういるのではないだろうか。これは、言葉面に惑わされて都合のいい解釈をしているだけで、本来の結果主義・成果主義とはまったく別のものだと思う。成果主義は、「過程不問主義」ではない。
結果が問われる仕事
しかし、考えてみると、一見まさに「成果」「結果」だけが問題視されるような種類の仕事も、あると言えばある。

典型的なのは、たとえば、書類や、ある作品など、完成物だけを提出するような場合。

たとえば、書類を提出しなければならないとき、その作成途中でいくら大きな間違いが発生していたとしても、提出する前にそれに気がついて適切に修正すれば、途中の間違いなどまったく反映されないし、問題にもならない。第一誰も気がつかない。確かに、書類ができるまでの過程に問題がある場合と、提出された書類に問題がある場合を単純に比べれば、結果だけが重要だ、というのも一理ある。

こういうタイプのものを「提出型の仕事」と呼ぶことができるかと思う。

それをもっと飛躍すれば、仮に、あなたがその作業をしている間、たとえばテレビを見ながら適当にやっつけ仕事をしても、または、寝転んで酒を飲みながらだらだら作業したとしても、まさに結果的に立派なものさえ出来上がれば別に誰も文句はないだろう、というような考えに偏るのも無理はないかもしれない。

もし、自分が純粋に提出型の仕事だけを扱っているのであれば

「結果的に良ければ、途中はどうでもいい」

かもしれない。
典型的な「見せる」仕事
このような「提出型の仕事」と対照的なのが、「見せる仕事」なのだ。つまり、ある作業なら作業、また、一連の流れ、といったものがあるとき、その全体を行っている過程そのものに大きな価値がある、と考えられるタイプの仕事だ。

たとえば、テレビの生放送に出演する

「女優・俳優・タレントさん」

といった方は、典型的な「見せる仕事」をしていると言える。今はクイズ番組がとても流行っているが、タレントさんがクイズ番組に出演する時、求められていることは、別にクイズで優勝することではない。

表面的な番組のつくりとしては、出演者は優勝を目指してみんながんばる、というような形式的な「流れ」がある。その番組には、

「クイズでより多く正解を出すこと」

という目的らしきものが設定されている。しかし、この目的、それにタレントさんの役割が、実は表面的なものであるということは、誰でも理解できるだろう。本当は、求められていることは、面白い回答を出したり、見ている視聴者がクイズに興味を持つように盛り上げたり、ということの方だ。そういうところに目的がある。つまり、「優勝者を決める」という結果にいたるまでの、過程そのものにその価値のほとんどがある。

こういうタイプの仕事を、「見せる仕事」と呼ぶわけだ。

ここでもし、あるタレントさんが、優勝するためにひたすら生真面目に頑張って、結果的に優勝したとして、そこに仕事としての価値があるだろうか。

見せる仕事という観点がなく、単に結果さえ出せば良いのだろう、という考えが、業種によってはいかにも的外れであることがよく分かるのではないだろうか。

そこで、もうお分かりかと思うのだが、お店で求められている、各スタッフさんの役割がどこにあるかという問題。

お店で働くということは、実は、典型的な「見せる仕事」なのである。

もちろん「仕入れ」「納品」「在庫整理」「清掃」というような作業をこなすということが仕事として求められている一方で、では、それぞれの作業について、「結果さえ出せば、過程はどうでもいい仕事か」というと、そんなことは全然ない。

お店で働くには、自分が「提出型の仕事」をしているのではなく、「見せる仕事」をしているんだという自覚が必要だ。それが意識できるかどうかで、販売員の印象はまったく変わってくる。
パフォーマンス性
自分の仕事の価値を高めるために

「いかに、自分の動きを見せるか、どう表現するか」

ということを、「パフォーマンス性」と私は呼んでいる。言わば仕事を「演出してみせる」ということだ。

お店で言えば、イメージとして典型的なのは、たとえば、おすし屋さんで、カウンターで注文して握ってもらうときなど。もちろん、実際の味も本当においしいに違いないが、その握っている職人さんのさっそうとした立ち居振る舞いや、洗練された技術をその場で見ていると、余計おいしく感じるだろう。

ラーメン屋さんでも、お祭りのテキ屋の焼きそばでも同じことだろう。そういうのを、パフォーマンス性と言うわけだ。いわゆるプロの方ならば、どんな商品を扱っていたとしても当然そういう面を重視しているはずだ。

もし、飲食業の職人さんが、「結果的に美味しいのができるんだから、だいじょうぶ」などと言い訳しながら、モタモタ、ダラダラ調理していたらどうだろうか。

販売・小売業でも、たとえば、よくテレビでやっている、テレビショッピングとかに出てくる実演販売の人の説明を聞いていると、ぜんぜん商品に興味がなくても何となく面白いものだ。実際には買わないまでも、それによって特定の商品をいつの間にかインプットされている、という経験はあるだろう。

これも、結果だけを言うならば、別に製品のクオリティは変わらないのに、パフォーマンス性によって販売力、告知力に大きな差が生まれる。実際の店舗においてもこのような差は生まれる。「提出型の仕事」との違いをよく考えてほしい。
「いらっしゃいませ」のパフォーマンス性
だから、お店で行う一つひとつの作業について、「結果的にちゃんとできていれば、問題ない」と考えているとしたら、大きな間違いだ。

たとえば、コンビニ・ファミレス・マックなどをはじめ、今多くのお店では、お客様が来店した時には必ず、「いらっしゃいませ~」とか、お声かけをするのが当たり前のようになっている。お店によってその徹底度はかなり差はあるものの、今では「きちんとお客様にあいさつ・お声かけをしようとしないお店」の方が少数派だろうと思う。

しかし、内部的に見れば、一人一人のスタッフさんが常に理想的なお声かけを行い続けることは非常に難しい。

特に、スタッフさんは、自分が手が空いていて、ただ立っている状態でならば簡単に立派なお声かけをすることができる。しかし、自分が何か他の作業をしている最中となると、とたんにお声かけができなくなる人がけっこういる。

「ついうっかりしてて・・・」

と言うのは簡単だが、それは、

自分が何か作業をしていると、それだけで仕事が成立している

というような安心感を持ってしまうところに原因があるのかもしれない。スタッフさんは、時々

「何も忙しく作業している時にまで、いちいち来店客にお声かけしなくてもいいじゃないか!」

というようなことを言う。それは

「私はこの作業をしたのだ。お声かけはおろそかでも、仕事はしている」と考えていることの表れだ。こういう人は案外多くいる。

また、あるスタッフさんは、

「お店に入ってくる人全員にお声かけするなんて、不可能です。他の人だってそうじゃないですか!」

と言う。これも、お声かけや態度を注意された時に多く見られる言い方だ。こういう人は、

「入店したお客様全員にお声かけをした」という事実に某か意味があると思いこんでいる。

これなどは、まさに分かりやすい結果だけに囚われた言い草だ。繰り返すが、

「何をどういうふうに提供するのか」

が、仕事の規準なのである。

たとえば、こういうところに、その人が「パフォーマンス性」ということを理解しているかどうかが如実に現れるわけだ。
販売員、サービスパーソンとして
「見せる」感覚がないと、たとえば、掃除をしろと言えば、とにかくその場をきれいにすることだけが目的だと考える。そして、指示された場所がきれいになったら、終わり。次に何かすることを与えられるか、発見するか、それまでは「何もない」から、突っ立ているのも当然のことだ。

これは、率直に言って「機械」と同じだ。

やることがあったら、やる。そして、やることがあるときは、他の指示・命令があっても反応しない。

「私は今これをやってるんだから・・・」

カーソルが砂時計になっているパソコンと同じだ。自分が与えられている「今やること」で心がいっぱいだからだ。「何か、することがある」ということが、本人にとって至上の喜びだからだ。

そして、やることがないときは、「無」なのだ。つまり、自分は「何もする必要はない」のだから・・・

何もしないで店内に立っていることが、お客様に違和感や威圧感を与える、とか、または、てきぱきと掃除をしている動き自体が、お客様のお店に対する印象を決定付ける、などという発想はない。

販売の仕事につくと「待機」という言葉を習うだろう。つまり、お客様が店内を回遊して、商品などを見ている間、アプローチ機会を待って「待機」するという行為が、立派な業務の一つとして数えられる。

しかし、これはヒマになったから、黙って突っ立っているのとは意味が違う。パフォーマンス性を持った、「販売員」「サービスパーソン」は、自分がどうやって「待機」しているのが、一番「見え方」が良いのかを考える。

作業員は、やるべき作業が終わって、手が空いたら「待機」する。

販売員は、むしろ

より良い「待機」を演出するために作業する。

これが、お店で求められるパフォーマンスであると思う。
「早くしろ」の意味
よくあるパターンを挙げると、働くことに慣れていない学生アルバイトのスタッフさんなどは、どうしても、最初一つひとつの作業・動作が遅くなる。だから、決まって「早くしろ」「急いで」と常に言われるだろう。もちろん、スピードは絶対必要だ。しかし、そうすると、人によっては、

「作業を一刻も早く終わらせること」

が、自分にとって究極の目的であるかのように没頭してしまい、周囲への影響や、パフォーマンス性といった面がすっかり抜け落ちてしまう場合がある。

誰も、今お買い物している店内のお客様のじゃまをしてまで早くしろと言っているわけではないのだ。そういう行動をきちんと修正せず、放置していると、その人は、商品を見ているお客様をどかしたり、むりやりすれ違ったり、お客様のほうに向かって掃除を進めて行ったり、といった行動を平気でするようになる。結果、「優秀な作業員」しかし「販売員としては使い物にならない人員」が、ひとり完成してしまうことになる。

コンビニや、または、飲食店などでも時々経験があるかもしれないが、お会計が終わったとき、お客様がまだレジから離れていないのに、お店のスタッフさんのほうが、処理が終わったからといってさっさとレジを離れて行ってしまう、ということがある。お客様の方からすれば、非常に事務的で、冷たい態度に見える。

こういう時、お客様は、

「なんと気遣いのないバイト店員だろう」
「今の若者は、常識がないな」

といった感想を持つかもしれない。

ところが、実はこれは、別に悪意があってそうしているわけではなく、往々にして、お店の熱心な指導の結果だったりする。

日常、「早く、急いで」という部分を強調する意味を履き違えて伝えると、スタッフさんは、むしろ、言われたとおり一生懸命努力するがゆえに、そういった態度になってしまう、という場合もあるのだ。
ピーク時間帯のパフォーマンス
お店では、特定の時間帯に「ピーク」というものがある。一日のうちで客数や回転率が最も上昇する時間帯であり、お店ではどうしても、座席数や、回転率を限界まで向上して、とにかく「早くさばく」ことに目が行きがちだが、パフォーマンス性を踏まえて視点を変えれば、改善の余地が残されているかもしれない。

参考までに、私の店のマニュアルから抜粋した一文を挙げる。




お客様が、お昼休みに同時にお買いものに来るので、レジが急に混んできます。店内も混雑しています。私たち(スタッフ)が、それと無関係に、自分たちのペースで淡々と作業していたらどうでしょう。多くのお客様が

「混雑はイヤだ」
「レジで待たされるのはイヤだ」

と考え、不愉快に感じるでしょう。では、とにかく一生けんめい、一刻も早くお会計が終わるように急いで対応すればよいのでしょうか。

でも、考えてみてください。たとえば、お祭りに行くとき、ディズニーランドに行くとき、同じように混雑していても、その雰囲気が楽しいものであれば、みんな自分からその混雑の中に出かけていくのではありませんか?

もちろん、あまり混雑しない方がいいという気持ちもありますが、むしろ人が集まっているから面白いという面もあります。あんまりガラガラだったら、つまらないんです。少し待たされるくらいが一番楽しいのではないでしょうか。

お店の場合とは状況も違いますが、人間は必ず「混雑=不快」と感じるとは限らない、ということです。

ふだんのお買い物でも、「ある程度混雑しているお店にあえて行く」という心理は、お客様の立場ならしばしばありうることでしょう。

もちろん、スムーズでスピーディーな動作は必要です。しかし、お客様が気持ちの上で、どの程度混雑を嫌がるか、また、どの程度全体の流れに協力的であるかは、私たちの態度や動作にかなり左右されます。パフォーマンス性がないと、お客様の気持ちが、「混雑に敏感に、非協力的に」なってしまうのです。

私たち販売員が「明るく」「楽しく」「一生けんめいに」「活気がある」動作を演じることができれば、混雑自体を緩和することはできなくても、お客様の感じ方を変えることはある程度可能なのです。

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小売業にとってサービスとは
パフォーマンス性は、あなたが

○何を提供するか、だけでなく
○それを、「どういうふうに」提供しようとするか

という意識を持ったときに強く発揮される。

ところで、その、「どういうふうに」という部分は、たいてい「サービス」という言葉で表される。つまり、あなたがもし、自分がサービス業に携わっていると思うなら、

「どういうふうに」

ということの重要性を踏まえて、それをより向上させ、究めてゆく姿勢が前提としてなければならないということだ。

仮に、あなたのお店の「規準」が、今

「○○という商品を提供する」

ということだとする。そうしたら、それを「どういうふうに」するのかを考えるのだ。それによって規準は追加され、向上する。たとえば

「○○という商品を、分かりやすく説明を添えて提供する」
「○○という商品を、見映え良く包装して提供する」
「○○という商品を、24時間いつでも提供する」

といった具合になる。これは一般的な例だが、実際にはもっと詳細で具体的なものを考える。それがあなたのお店の規準になる。

仮に、あなた自身の業務が

「レジでお会計する」

ことだとする。そうしたら、たとえば

「レジで、一切お待たせしないようにお会計する」
「レジで、終止笑顔でお会計する」
「レジで、『ここで買い物してよかった』と思わせるようにお会計する」

といった具合だ。

この、「サービス」という視点と、「パフォーマンス性」というスキルは密接な関係があり、お店で働くあなたの「規準」の高さに直接影響する。
見せる部分は必ずある
実は、先に挙げた「提出型の仕事」というのも、それはその仕事を提供する本人が

「過程など関係ない」

と思い込んでいれば、そうだというだけで、実際には「見せる仕事」にあたる部分がまったくないかというと、別にそんなことはない。厳密には、本当に結果さえ良ければいい、と言い切れるような完全なる「提出型の仕事」というのは、ほとんど存在しない。

たとえば、結果的に優れた提供物を作る能力が高くても、会うたびにいつもダラダラして、やる気があるのかなんだか分からないという風であれば、そもそも、その人にその仕事を頼もうという気持ちが働きにくい。その人があまりに変な態度で作業している、となれば、必ずしも

「ぜんぜん問題ない」
「まったく影響ない」

と、相手が考えてくれるという保証はない。当然、仕事をやっているときの姿勢は問われる。その業務自体は「提出型」でも、それに付帯するさまざまな対人関係、顧客との接触がまったくない、という仕事もない。

むしろ、たとえば「書類を作る」とか、「商品を納入する」というように、その行為に限定しているから「提出型の仕事」になってしまうだけで、つまり本人の仕事についての捉え方、「規準」をどこに置いているかによって「見せる部分」をどう扱うかが決定されるわけだ。

腕のいい大工さんは、結果的に立派な家を建てるだけではなく、その家が完成するまでの過程で「さすが、名工だ」と見る人を唸らせる何かを持っていればこそ、腕がいいと認められるのだろう。

さらに、結果しか問題にならないからと言って、わざわざ、おかしな態度で作業する必要性もまったくない。

「結果を出す仕事」と「見せる仕事」、結局のところ、これらは自分の仕事に対する価値の置き方によって、どうにでもバランスの変わるものなのだ。
結果を出すには
むしろ、一定以上に仕事の質を高めようとすれば必ず、単なる「結果」ではなく、過程をより重視してゆくことになるはずだ。

たとえば、スポーツ選手が試合に臨む場合。彼らは、言ってみれば

「出場する大会・試合において、結果を出すこと」

さえできれば、別にどれだけ練習したとか、まじめに頑張ってきたとか、そういうことは無関係だ、という言い方もできる。他のどんな仕事よりも結果が大切な仕事と言える。

でも、どこの世界に、実際練習はすべてサボって、試合だけ勝てる選手がいるのか。

逆に言えば、練習しなくても勝てる程度の大会だけ選んで出場する選手がどこにいるのか。そんな選手を誰が応援しようと思うのか。むしろ、スポーツの世界でも、一流に近付くほど、単に「勝った」ということだけに価値を置くのではなく、ファンは

「どんな練習メニューをこなしているんだろう」
「どうしたら、あんなことが出来るんだろう」

というように、そこに至る過程を知りたいと思うようになるではないか。

過程や、パフオーマンス性をまったく考慮しなくても出せる結果なんて、そもそもたいした結果ではない、ということではないだろうか。

結局のところ、「結果」と「過程」は、ほとんどどんな仕事であっても両方問われるということで、結果主義を曲解している人は、自分の力を殺すような考え方を、わざわざ取り入れているのではないか。

どんな仕事においても、それなりの程度に認められようとするからには、過程を軽視するわけには行かないのだろう。
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